11

5月

2010

「幸せとは?」(4) 【完結】

今わたしは

心よい満足感にひたっている。

 

 

私の中にある願い、

 

関わる人々が、健康で心安らかに

その生涯を全うできるように

 

との熱き想いを

残らず語り終えたと。

 


もとより

この記述が未熟で不完全なものであり

万人を説得できるような価値あるものとは

決して自惚れてはいない。

 

 


自己満足のそしりも

あえて甘受しようと思っている。

 

しかし

襲い来るであろう苦しみや不幸の

たとえ万分の一でも

食い止め減らす事ができれば

大いなる喜びとするところであり

もって瞑すべきではないかと思う。

 

 

 

最近になって

とても面白い「自己改造法」とでもいう

実践の方法を知った。

 


実際に試してみて

意外な効果のある事を確認し得たので

これを紹介してこの記述を終えたいと思う。

 

 

私の、るる述べて来た事は

苦しみの意味と

前もってそれに対処する方法なのだが

これは苦しみに直面した時に

驚くような効果があると云われている。

 

 


それも誠にシンプルで簡単な方法で。


苦しみを軽減するだけでなく

ネガティブな感情までも浄化されるように感じる。

 


それは、ハワイに古くから伝わる 

ホ・オポノポノ(修正する、誤りを正す)

という実践法である。

 


信じる信じないはともかく

我々の潜在意識の中には地

球創生以来の全ての記憶が存在していて

諸々の出来事はそれが再生されたものだと云う。

 


その記憶を消去する事で

反映としての現実の諸問題を

解決できるのだとも云う。

 


その方法は只

次の言葉を心の内で唱えるだけ。


「ありがとう」
「ごめんなさい」
「許してください」
「愛しています」

 

 

色々な悩みが現実に起こった時に

全て自分の問題としてとらえ

それは

 

潜在意識の記憶のどこに原因があるのだろうか

 

と、意識を集中させる。

 

 


答えは不要。

その記憶と云うイメージに対して

四つの言葉を繰り返す。

 


例えば、家族の誰かに問題があっても

自分の問題として記憶を浄化する。


そういう風にさせる原因が

私の記憶のどこにあるのだろうかと。

 

他の問題に対しても同様。

 

理屈で理解しようとしても

多分不可能と思われる。


人智の及ばない事は数限りない程あるのだから

とりあえず実行してみてほしい。

 


「ありがとう」だけでもいいようだし

「アイラブユー」だけでも効果はあると思われる。

 


苦しみを経験しなければ

悟れない事も多いと思うが

やはり無用な苦悩の少なからん事を

そして幸多からん事を、熱く熱く祈っている。


私の命ある限り。

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27

4月

2010

「幸せとは?」(3)

幸せとはなんだろう


それを決めるのは誰なのか


自分の幸せは

誰か他の人が与えてくれるものなのか

 


これがなければ

不幸だと云うものがあるのだろうか

 

幸不幸は当然の事ながら

自分が決めるもので

心以外のものが条件になる事は

あり得ないと思う


つまり

自らの心次第ではないだろうか


「幸福」というものは

抽象的な概念だけで、実際に存在するのは

「幸福感」という感覚だけではないのか

 


感覚は自分自身が創り出すもので

しかも前に20℃の室温の所で話した様に

比較する対象や条件によって

大きく結論が違ってくる事もしばしばある

 


その条件が高ければ高い程

幸せという感覚は

得る事が難しくなるのは当然の事だ

 

 

ささいな事を喜べる人に

なってほしいと思う


ささいな事で感動できる人に

なってほしいとも思う


足る事を知らず感謝する事もせず

欲望ばかりを次々と追って
人生を消耗する事なかれ。

 


何気ない平凡な日々。

取り立てて云う事もない日常。


それがどれ程、かけがえのないものか!


どれ程有難く、尊いものか!

 

どうかその事を理解し

実感してほしいと、切に思う

 


苦しみを実体験せずとも

心素直に教訓として学んでほしいと思う

 


世に存在する諸々の不幸や苦しみを

愛の念を以って見さえすれば、、、


対岸の火事と無関心にならず

思いやりの心で見さえすれば

自ずと理解できると思う

 

今、苦しんでいる人は

過去の自分であったかも知れない

 


無関心でいるなら

その姿は未来の自分であるかも知れない


縁あって少しでもお手伝いできる事があれば

どうか勇気をもって実行してほしい

 


無理ならば、、、、、

心から祈ってほしい

 


彼らが、一刻も早く救われますようにと


いかに無力であっても

否、無力であるからこそ祈りしかないと思う

 


そしてどうか

人の痛みのわかる人間になってほしい

 


及ばずながらも

その痛みを癒してあげたいと思える

優しさと熱い心を持った人間になってほしい

 

 

過去、現在、そして恐らく未来にも

この苦しみ、不幸は消滅することなく
続いていくかもしれないが

 

 

世の中には何一つ矛盾はない!


いかなる不公平もない!


只その人にとって

必要なものが与えられているだけなのだ。


成長する為に必要なものが!

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20

4月

2010

「幸せとは?」(2)

「幸せとは?」(2)

 

 

この星で生きる為の宇宙服に備わった

云わばご褒美である快に心奪われ

酔い痴れる所に諸々の苦悩が生じると

語ってきた。


この宇宙服を

生を終えるまで大切に扱うのは当然

必要な事だ。  


が、その事が最大にして唯一の目的だと

誤解する所に

根本的な誤りと、大きな弊害が

生まれる原因があると思う。

 


服はあくまで単なる服であり

いわば借り物にすぎず

断じて魂そのものでは、ない。

 


魂が自らに必要な経験を積む為に

あたかも色々な役柄を演じる役者の様に

その生涯において

自らが主役を演じるのだ。

 

 

全ての人が様々な役を演じてきたと思う。


その必要性に応じて。


又それは恐らくこの生涯で終わりではなく

これから先も連綿と続く事だろう。

 

 

原因と結果の法則を正しく悟り

純粋な愛こそが我々にとって最も大切な

最も価値ある宝物であると理解し

認識できるまで。

 


そしてその愛は

前に述べた様に

自分と

自分に都合のよい人に対するものだけでなく
人類愛にまで昇華できた時に

完成するのではないだろうか。

 

 

その目標はしかし
今の我々の

ありのままの姿を見れば余りにも遠く

そして

見果てぬ夢のように思われる。

 


残念ながら

前に紹介させて貰った稲盛氏のような人は

誠に稀有な存在と云わざるを得ない。

 


長い苦闘と汗の結晶である私財を惜しげもなく投じ

価値ある業績を残した

科学者や芸術家たちを顕彰する為の

京都賞を創設した氏を私は敬愛して已まない。

 

 


同じ様な優秀な頭脳を持ち

同じような努力を傾注したとしても

氏のような素晴らしい行いはできるとは限らない。

 


神と云う実体に通ずる

純粋な愛がなければそれは

不可能だから。

 

 

何を為し如何なる業績を残したか

よりも如何に愛の念を持ち

それを実践したかの方がはるかに重要ではないだろうか。
氏の行いはどれ程の人を救っている事だろう。

 


どれ程の人に勇気と希望を与え

心を暖めている事だろう。

 


人を感動させる薫り高き行動は

やはり愛の念がその根底に必ず存在しているし

もし、そうでないならば人は

それを、偽善と呼ぶ。


いかに人に誇れる事を行っても

そこに利他愛の気持ちがなければ

仏作って魂入れずで

形だけの血の通わないものでしかない。

 

 

どうか、幾多の辛酸をなめ

苦悩に充ちた経験をしたとしても

人の愛を疑わないでほしい。

 


それは自分の誤りや

不足を教えてくれるものであり

又、過去の負債を返済する為に

必要なのだと、悟ってほしい。

 

 

神の存在と愛を、決して疑わないでほしい。

 


神が直接我々に干渉し

手を引いて幸せに導いてくれる事はないが

苦しみの向こうに輝くような

至福がほほ笑んでいる事を信じてほしい。

 


そういう

幸せの法則を創ってくれた神を信じ

心をいつも神に向けて開き

神を愛してほしい。

 

 

苦しみを正しく解釈し

それに耐える精神力を培ってほしい。


角多き石塊(いしくれ)が互いにぶつかり

こすれ合いながら次第に丸くなっていくように

苦しみによって

我々の魂も浄化し

成長してゆく事を理解してほしい。

 

 

又、血縁で結ばれた肉親だけが

絆の全てではない事を知ってほしい。

 


魂の絆でつながる縁を大切にしてほしい。


家族や知人友人、知り合い

そしてすれ違う人々すら

かつては縁ある人であったかも知れない。

 


人は一人で生きていける程強くないし

一人一人の力も哀しい程微力なもの。


それ故にこそ

互いに支え合って生きていくべき存在だと云える。

 


大自然から見れば我々は

まるで一滴の水の如く儚く頼りないものだが
心が通い合えば

全ての生命を育み

成長させる雄大な海のような存在になり得るのだ。


それを可能にするのは

只、只、愛しかないのでは、と思う。

 

純粋な愛。

 

 
そんなものは

愚直な世間知らずの云う世迷言だと

もし嘲笑されても気にする事なかれ。

 


科学が証明する事しか信じない人の

やや偏った考え方に振り回される事なかれ。

 

 

又もし、まかり間違って優秀な頭脳に恵まれ

それによって

素晴らしい仕事や業績を残せたとしても

決して驕る事なかれ。


人として大切な事は、

断じて頭脳や金や肩書きではない!

 

 

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20

4月

2010

「幸せとは?」 (1)

「幸せとは?」(1)

 

 

さて

人の幸せとは、、、、、 

真実の幸せとは一体何だろうか。

 


一般的にはやはり
金銭的に恵まれ、地位名誉など肩書きも立派で

何不自由なく暮らす事が

本当の幸せだと考えられている。

 


確かに、貧しさが人に苦悩をもたらしているのは

日本だけでなく

世界の全ての国に共通する事実だろう。

 


お金や物さえあれば苦しみから解放される人は

今も、数限りない程いると思われる

 

しかし、貧しさに苦しむ人が全て不幸だと

云い切れるのだろうか。 

 


洗うが如き貧しさであるなら、

何の満足する事もなく
指先ほどの小さな喜びもないと

云えるのだろうか。

 


貧が、全ての笑顔を奪い取ると

誰が云えるのだろうか。


逆に金さえあれば間違いなく

幸せだと云い切れるのか。


全ての問題は解決でき

全ての苦悩の免罪符となりえるのか。

 

 

現実をみれば、必ずしもそうではない

というのは明々白々の事実だと思う。

 


あり余る程お金があっても

諸々の苦悩は消せるものではない様だし

その金もいつまでも傍にいてくれるとは限らない。


諸行無常と云う言葉の

まるで象徴であるかの様な「お金」


人を虜にして已まないこの金は

云うまでもなく欲望の大部分を充たし

我々に「快」の感覚を与える


過去に味わったこの快という幸福感が

後々まで持続するのなら

何の問題もないだろう。

 


しかしその記憶は

明日への幸せをもたらすどころか

それ以上の快を

渇望させるだけではないだろうか。

 


足る事を知らず

並外れた欲求を制御できないとするなら
次々とわき出ずる欲望と云う渇きに

生涯翻弄される事になるだろう。

 


癒し様のない渇きに振り回される人生は

やはり虚しいと云わざるを得ない。

 

金さえあれば必ず幸せになれると云うのは

単なる妄想にすぎず
幸不幸は

金のあるなしに全く関係ないと断言できる。

 


その他地位肩書きなどの

わが身を飾る外面的なものも

同様であろうと思われる。


一朝、事あれば誠にあっけなく

虚しく消え去るものが

真の幸せであろう筈がない。

 


又、五体健全で、健康である事も

幸せの根本だと考えられるが
そうでなければ不幸かと云うと

これも、そうとばかりは云えないだろう。

 


命に関わる病気になって初めて

生命の尊さや、生かされている事の

有難さ

に気付かされたと、よく聞く事がある。

 


残されたわずかな年月を

正に輝くような想いで生きている人も

多いと思う。


一日一日を、いや一秒一秒を

魂を輝かせて生きている人が

今も大勢おられると思う。

 


生きていると云う実感のない

惰性のような毎日を長年送るよりも

遥かに充実した日々を

今、送っておられる人が。

 


こう云う人を不幸だと云えるだろうか。


只少し

人よりも早く旅立つだけで幸せでないと

誰が云えるのだろうか。

 


又、例えとして引用させて貰って恐縮だが

五体不満足の乙武君と云う

世間の常識からすれば

不幸の極みのような状態でありながら
あの輝くような笑顔。

 


素晴らしい生き方


弾けるようなオーラを出している彼をみれば

真実の幸せとは何なのかと云う

明確な一つの解答ではないだろうか。

 


体に何の障害もないのに

感謝する事も

生命の尊さを悟る事もできない

我々の方が

むしろ

不自由と云うべきかも知れない。

 


真実の幸せから、ひょっとして一番遠いと

云うべきかもしれない。

 

苛酷な風に吹かれようと

思わぬ難に遭おうと

一切変わる事も奪われる事もなく


想いも志も

途(みち)半ばに終わるとしても

一切悔いも嘆きもない生き方のできる

心の安らぎ。平安。

 


どうすれば

その様なものが我が物となるのだろうか。

 

我々が生を生きる

本当の目的が理解できれば
その時、間違いなく真実の幸せを悟り

一歩も二歩も

それに近づくのではないかと思われる。

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20

4月

2010

真実の幸せとは

真実の幸せとは

誠に長々と、かの忌まわしい苦しみと

その対処法について語ってきた。

 


苦しみに対する分析も対処法も

完全とは決して言い難く

それ故にか心の内の

忸怩たる想いをぬぐい去る事はできない。

 


にも拘わらず、仰々しく垂訓

説教を垂れ流しているのでは、と

何度も思いあぐね

しばしば立ち止まってしまった。

 

 

自分自身でいかに確信を持っているとは云え
仮定や推測による部分も多く

断定的に結論を押し付ける事は決してできないし

私自身にもその積りは全くないのだが。

 


只只、一つの提言として

人生を考えて貰うきっかけになればとの想い

黙しがたく
敢えて聞いて貰っているが

今少し、我慢してほしいと思う。

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13

4月

2010

「アルコールで邪気取り」

「アルコールで邪気取り」後、我々の身の回りに溢れている

 

物が発する邪気。


大したエネルギーではないが

肌着や寝具の様に体に密着すればする程

影響が大きくなる。


不快になったり眠りにくくなったりと

多少の害を受ける事も多くなると思われる。


長年に亘れば

かなりのダメージになる事も

あるかも知れない。

 


これに対しては

エタノール等のアルコールを

噴霧器で少々ふりかければ

一時的ではあるが解消する。

 


二、三日に一度は消毒をかねて

行えば快適さを維持できるだろう。


因みに酒類に弱くなければ

焼酎でも可、であり充分効果はある。


又、メンソレを軽く塗布するのも有効だ。

 

だが、物質として振動している限り

気を発するので、効果に永続性はなく
今後の課題として

思考錯誤しながらよりよいものを

見つけていくしか方法はない。

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13

4月

2010

「聖霊への祈り」

「聖霊への祈り」

 その、聖霊とも云うべき存在の力を借りて

迷える霊怒れる霊を納得させ

しかるべき場所へと送る

 

祈りの言葉を掲げて置く。


心を込めて実行すれば

かなりの効果があると思う。

 


尊き聖霊にお願いします。
OO(人や場所、物)に憑依している

悪しき霊(又は邪念、邪気)を

広大無辺の愛のエネルギーにより浄化し

全ての苦しみから解放し

然るべき素晴らしい場所に

導いて下さるようにお願いします。

心から感謝。

 

この祈りの言葉を何度か繰り返せば

余程の悪霊でない限りは、多分解決できると思う。


そして、より完全を期す為に直接その霊に向かい

言葉で説得をする。


あなたはもう

死んで肉体を持っていません。

 

今、神の愛に包まれて心安らかに

行くべき天国に出発して下さい。

 

神はあなたを愛し、常に見守っておられます。

神を信じて下さい」と。

 


この手法で、もう一つすっきりしない場合は

 

 不動明王の真言

ノウマクサンマンダ、バーザラダンセンダ

マーカロシャーダ、ソワタヤ、ウンタラタカンマン

を唱え「九字」を切る。

 

 

無暗にすべきではないが

必要な時は断固たる意志を持って行なってほしい。


逆に憑依される危険もあるので

充分な注意を要する。

 

 

 

 

 

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06

4月

2010

「外邪への対処法」

「外邪への対処法」

さて外邪に対する説明が長くなったが

 

不完全ながらもその対処法を述べてみたい。

 


まず最も影響力の強い土地の浄化については

磁場の調整が是非とも必要だと思われる。

 


概ね悪い反応を示す土地は

磁場の偏りが強く

極性で云えばS極になっている事が多い様に診断できる。

 


故に、ネオジウムと云う強力な磁石を

N極を下にして

建物の四隅か鬼門部に置く

 


両面テープで固定するか

上に鉢植えでも置くかして、移動しないように注意が必要だ。 強さは三千~五千ガウス位のものがいいと思う。


恐らくこれで、かなり改善されるだろう。

 


磁石を使った浄化法をもう一つ。


部屋の雰囲気が気になるとか、何かが居ると感じられる時には、天井の中心付近にこの磁石を両面テープで張り付ける。
S極を下に向けて。

 


只これだけで

多分悪しきものは寄り付きにくくなる筈だ。

 

これは予防的な処置で

実際に異変を感じた時の方法を伝えたい。

 


先に述べた通り、邪霊の種類も色々あり

凶悪なものに対しては危険が付きまとう。


人間一人の能力やパワーだけでは

恐らく対処し切れない事も多いと思われる。


我々にはしかし

有難い事にこれらの悪しきものから

守護してくれる尊い霊が存在している。

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05

4月

2010

「神は過保護な親か?」

「神は過保護な親か?」

神を信じない理由は様々だろうが

 

それが存在するのなら

何故私にこんな苦しみを与えるのか。

 


絶望的な苦難から救われないのが

神の居ない何よりの証明ではないか

と云うのが彼等の言い分だと思う。

 

 

だが、一人一人の人間が病気する事もなく

事件事故に遭う事も衣食住の悩みもなく

全ての苦悩から守られ

幸せな人生を全うさせる為に神は存在していると

もし考えているのなら
それは率直に云って

超甘えん坊の論理と云う他ない。

 

 

我々は神の意のままに動くロボットでも

操り人形でもない。


自分の意志で生きる権利を与えられている半面

自己責任において全てを決済し

多くの事を学び

そして魂を浄化向上させる事を

期待されているだけなのだと思う。

 

恐らく全ての人は

この事を理解し納得しさえすれば

神と云う実体の創られた

「愛の流れ」に逆らうが如き行いは

決してしないのではないか。

 

 

だが、、、、、、、科学万能物質万能の

やや偏った社会の中で

こう云う事を学ぶ機会は残念ながら

極めて少ないと云わざるを得ない。

 


心を開きさえすれば、、、、、、、

只、謙虚に人間の限界を踏まえ

心を開きさえすれば
自ら学び、是非を判断する情報は

多いと思うのだが。

 


色メガネや凝り固まった信念を抜きにして

只柔軟に、心と頭を開放しさえすれば。


虚心に

ただ真実を知りたいと思いさえすれば

答えは自ずと明確になると思う。

 

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30

3月

2010

「邪霊」

「邪霊」

さていよいよ外邪としての最後のテーマ

 

邪霊について話をさせて貰いたい。


何度も云う様に

万人が納得し得る

証拠と云うもののない問題であるだけに

多少の気遅れを感じてしまう。

 

元々私の仕事である

東洋医学の一分野としての鍼灸は
気と云う目に見えないエネルギーを対象にし

治療に不可欠の重要な要素として扱ってきた。


しかし

この肉体を失ったある種の

エネルギー体とも云うべき霊については
関知する事もなければ

問題にする事も一切ないと云える。


私も当然そうであった。

ある時期までは。


だが、診断に「筋肉テスト」を進化させた

「気診」と云うものを使い出してから

事情が変わってしまったのだ。

 

生命の反応は、この気診で診る事ができるのだが

目の前に誰もいないのに

人としての生命反応があると云う

不可思議な事が度々あった。

 


つまり現象面から

こう云う事を、信じない訳にはいけなくなった

と云う事なのだ。

 


しかしこの診断はあくまで、主観的なもの。


全ての人を納得させるものでは決してない。


死を以って全て終わると

頑なに信じている人には、何の説得力も持たない。


だが前に述べた様に

そう信じている彼らの根拠は只、

目に見えないから

と云うだけの云わば

思い込みではないだろうか。

 


どのように考えようと

個人の自由だと思うが

存在しないと云う証明も出来ないのに

断固たる信念を持つのも

少し片意地に過ぎるのでは、と思う。

 

 

ともあれ

目には見えなくとも

我々の生命エネルギーは

確実に存在する。

 


そして肉体を失い、死を迎えたそれは

消滅するのではなく

云わば次元の違う世界に進むのだと思う。

 

 

その世界を人は あの世とも霊界とも呼ぶが
呼び方はともかく

そこが我々人間の真実のふる里なのだ。

 


この現界は

肉体と云う窮屈な制約の多いものを着て

諸々の経験を積む為にあると考えられている。

 


肉体を持たなければ負債を返済したり

修行を実行する事は出来ないと云う事だ。

 


さて

死して肉体を失ったエネルギー体は

一般に霊と呼ばれる存在となるが

ここではそれを魂と呼ばせて貰う。


極く普通の生涯を終えた

執着も思い込みも特別強くない魂は

愛情あふれる先輩達に案内されて心安らかに

然るべき場所へと向かう。

 


この上なき解放感と至福の想いに包まれて。

 

それぞれが

到達した心境に相応しい階層に進んでいく

と云うよりは帰ってゆく

と云ったほうが正確かも知れない。

 


魂の、強い絆で結ばれた

なつかしいふる里へ

帰ってゆくと云われている。

 


そして又肉体を持って

色々な経験を積む為に再生するまで

この輝くような幸せな日々を過ごす

とも云われている。

 

 

だが、死が全ての終りだと考えていた魂は

意識が存続しているが故に、自分が死んだとは思わず

現界にとどまる事になりやすい。

 


執着や怒り無念の思いが強すぎれば

同じ様に自らをこの地に縛り付け

上昇を妨げる事になるだろう。

 

 

思い込みや頑迷な信念が為せる

虚しい浪費だと、嘆かずにいられない。

 

しかし実際に

生きている人を苦しめ不幸に陥れる

恐ろしい邪霊となるのは

こういう迷いし者達ではない。


それは恨みや憎しみの強烈な念を

死して後も持ち続け
手当たり次第に生ける人を襲う

凶暴な魂なのである。


こう云う魂は

生きている時から自分の欲や都合の為に

平気で人を傷つけ危害を加えるような

禍々しい性格を持っていたのかも知れない。

 


今、世間を見回しても

又新聞テレビを見ていても

何ともオゾマシイ事件が日常的に起こっている。

最近は特に殺人などの、凶悪事件が多いように思える。.

 


ほんの些細な感情のモツレとか

只お金がほしいと云う理由だけで

いとも簡単に大罪を犯す人間が

増えているのではないだろうか。

 

 

自分の感情や欲望を抑え切れない人が死んでも

直ちに成仏と云って

仏の様な存在になる訳がない。


ましてや死ねば終りだと云う

死生観を頑固に持っていれば迷ったり

人に迷惑をかけるのは当然の事と思われる。

 

 

この様にして邪霊と云う

大いなる厄災の元となるエネルギーが誕生する。


私自身の狭い経験においても

このエネルギーによる被害は

決して小さいものではないと感じられる。

 

精神を乱れさせたり 犯罪をそそのかせたり
人間関係を壊そうとしたり

又体調を狂わせたりと

様々な分野で人を苦境に陥れる可能性がある。

 


原因と結果の法則からみれば

こういう行為は当然赦されざる罪であり

いずれは己に帰ってくるのは間違いない。


しかし世の犯罪者と同じく

彼らも

この法則や愛、そして神の存在すら信じてない。

 

もし人の情や愛、ひいては神を信じ

この法則や正しい死生観をもっていたら
恐らく自ら迷う事も

罪を作る事もなかったのではないだろうか

 

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30

3月

2010

「邪念」

「邪念」

 


人は諸々の刺激に反応して

実に様々な感情や想念を発する


わが子に対する親の愛のように

純粋で清らかなものもあれば
どす黒い欲望の念。

 

怒りや憎しみ、果ては

呪いの想念も、世界中の至る所で

巻き散らかされている。

 


その他嘆きや哀しみの

悲痛な想いも

日々繰り返えされている事だろう。

 

この感情や想念にも

当然強い弱いがあり

あるレベル以下のものは時間とともに

自然に消滅すると思われる。

 


しかし

ある程度以上の強さを持った悪い念は

消去の為の処置をしない限り残存し

人に、何がしかの影響を与える恐れがある。


それがここで云う所の邪念という

あなどり難い、悪エネルギーなのである。

 

 

実際に

これらのものが存在しているのは

間違いないと思える。

 


人にも、、、、、、

特定の場所にも、、、、、、、

そして様々な物品にも。

 


さながら、黒い雲のように、、、、、。

 


その最たるものは

強烈な悪念により敵や憎む相手を

不幸に突き落そうとする呪詛の法だろう。

 


日本においても、権力の亡者による呪法の暗い

おぞましい歴史が垣間見える。

 


個人的な恨み呪いを果たさんとする

丑の刻参り(うしのこくまいり)の

不気味な話もしばしば話題になる。


又、外国にも黒魔術などと云うものが

今も、なお存在しているように聞く。

 


恐らくエネルギーとしては強烈なる故に

人に少なからぬ影響を与えるものと考えられる。

 


それ程でなくとも、我々は日常的に

良くない想念を発している事も多いと思う。

 


只それが

自然に消滅する程度のものであればいいのだが

感情の強弱も人により様々。

 


極度に感情的な人や

想いの強い人の発する怒りや憎しみの悪しき想念が

一つのエネルギーとして

目に見えぬ凶器となり人を傷つける恐れもある。

 

 

実際に人を不快にしたり

体調を崩させたりと云う事が頻繁に診てとれる。

 


もちろん

発した本人は現実に手を下している訳ではないので

それが罪な事とは思いもしないだろう。

 


しかし

そのエネルギーが無視できない程大きいものなら

人を傷害する可能性も充分あり

従って罪を作っているのと同じ事だと云っても

過言ではない。

 


所で知る人も多いと思うが

潜在意識を利用して願望を成就する方法がある。


意識を深い領域まで沈潜させて

願い事をありありとイメージすれば
その実現の可能性はかなり高く

早くなると云われている。

 

考えてみればこれは祈りと云う行為に他ならない。

 

祈りとしての念が強ければ強い程

その可能性は大きくなる。


しかし人の不幸を願う祈りは

親の純粋な愛の祈りと比べて、正に天地程の差がある。


文字通り天国に通じる思いと

地獄に結びつく邪念。

 


恐らくこの180度違う想念が

互いに相克し葛藤しながら

トータルとして

社会や国の品格となるのではないだろうか。


ひいては人類の「総意」の一部となるのかも知れない。

 

願わくば

 

人と人との間が

いたわりの心、思いやりや、優しさ

で満たされる様な


そんな国が多くなる事を、心から祈りたいと思う。

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23

3月

2010

「おぞましき霊体験」

「おぞましき霊体験」

 


私が初めて手に入れた中古の家が

正にその様な物件だった。


思いだしても

おぞ気を催す奇怪にして恐ろしい経験を

都合、六年にも亘って味わった。

 

 

金縛りに遭うのは日常茶飯事。


仏壇を移動させただけで

風邪もひいてないのに

未だかって経験した事のないような寒気に襲われ

歯が勝手にガチガチふるえ

背中に氷を押し付けられている様な冷たさ。


シャツふとんを重ね着しても

熱いものを飲んでも収まらない冷気。


仏壇を元の位置に置き直したら

どうにか解決し、事なき得たが

誠に強烈な恐ろしい経験だった。

 

又金縛りの状態で人が乗ってくると云う

異様な出来事もあった。


ちょうど人の形で鳥肌が立ち

同時に人が覆いかぶさる様な感覚。

 


これは誠に気持ちの悪いもので

今思い返してもぞっとする。

 

我が家だけでなく

町内一帯が凄まじい凶事に襲われて
癌、脳梗塞、透析、難病、離婚

などの苦しみを味わう人が

続出すると云う状況であった。

 

 

もちろんこの悪しきものが

原因の全てではないだろうが
少なくともそれを

もたらすものを増幅したり

引き寄せたりする事は間違いないと思われる。

 


誠に恐ろしく、又簡単に解決できぬ

由々しき問題だと云わざるを得ない。

 

さてそれ以外に

我々の周囲に溢れんばかりに存在する「物質」にも

同じ様に三種類の気があると考えられる。

 

色々な材料を使って作り出される物質は

その物となった瞬間から、特有の波動を発する。

 


邪気と云っても

物質に意志や思いがある訳でなく

その振動自体がたまたま

我々の健康その他に良くない

と云うだけの話である。

 


只如何なる処置をしても、振動している限り
邪気として働く。


それ故かどうか

完璧に解消する方法を

未だ、見つけられずにいる。

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23

3月

2010

「邪気」

「邪気」

 

 

 我々を取り巻く環境には

 

随分多くの物が存在している。

 


自然界においても太陽がなければ

あらゆる生命は生存不可能であるが

本来その中には

ⅹ線や紫外線など有害なものも含まれている。

 


オゾンホールによる障害が

懸念されるようになって久しい。

大気というバリヤーが無ければ

それらのものは

恐ろしい邪気として我々を襲うだろう。

 

 

水分も我々にとって不可欠のものだが

湿気の多い所に永くいれば

健康を害す恐れもある。

 


これも一種の邪気と考えられる。

 

 

呼吸に必要な酸素にしても

約20%という微妙なバランスの中で

我々は生かされている。


この濃度が狂えば

それは強烈な邪気として

我々の生命すら危機に陥れると思われる。

 

 

実に自然な状態においても

このように邪気は充ち溢れている。

 


が、もちろん気という概念で云うなら

例えば美しい風景や清々しい山の気

緑なす樹木の清澄な気のように

健康にプラスになる気もある。

 


しかし今は

苦しみを探求することが目的であるが故に

殊更、悪しきものだけを取りあげ事になるが

了解してもらいたい。

 


さて我々の文明が創り出した

様々な人工物も恐らく、測り知れない影響を

人類に及ぼしているのではないかと危惧される。

 


その中でも電磁波の問題が

特に重大かつ深刻だと思える。


走る電車や車の中でも

メールや通話ができる程強力な電波が

今や世界中に飛び交い

人の体を貫通してゆく。


考えれば、少し怖くならないだろうか。

 

 

また文明を謳歌している国々では

どの家庭でも例外なく電化製品が所狭しと

ひしめき合っている。

 


電気が流れれば磁界が生まれ、磁場が生じる。

 


人間に対するこの磁場の影響は

充分研究され安全が保障されている訳ではない。

 


家庭の中においても

無秩序に乱れ歪んでいるこの磁場がやはり

大きな邪気として働く事は大いに推測できる。

 

 

その他排気ガス等による大気汚染や
住まいの快適さ故に生み出される

諸々の汚染物質。

 


又食品添加物なども

我々の健康を脅かす邪気と

考えられなくもない。

 

 

この邪気への対処法は後程

いくつか列挙しておきたいと思うが


この項の最後に

我々の生活の基盤である「土地」にも

気という、波動、エネルギーが

存在している様に感じられる。

 

 

当然良い気(+)を発する土地もあれば

そうでないもの(-)

そして健康に全く影響のない

ニュートラル (+-=0)な土地も多い。

 


その違いや種類が何によるのか全く不明で

土壌によるのか

含まれている物によるのか
残念ながら、無知な私には解明できないでいる。

 


只、トータルな意味合いにおいて

強烈に悪かったり

かなり良い土地であったりする。

 

 

邪気を発する土地はそれ自体

人の健康に悪影響を及ぼす恐れがあるが
更にそれだけにとどまらず

後に述べる邪霊などの悪しきものを

引き寄せる事が多いように思える。

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23

3月

2010

外邪の種類と対策

第五章
外邪の種類と対策

悪しき

そのエネルギーを外邪と呼ばせてもらうが

これには 

 


(一)物理的な良くない気=邪気

(二)悪しき感情=邪念

 (三)肉体を持たない生命エネルギー=邪霊


の三種類が存在すると思われる。

 

大した知識も能力も持ち合わせていないが

それぞれについて、一応説明させて貰いたい。

 

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16

3月

2010

「口臭を一発で取る方法」

「口臭を一発で取る方法」

 

歳とともに唾液の分泌も少なくなり

免疫の働きも弱くなるので

口の中には細菌が繁殖しやすい。


この細菌のせいで口臭が発生するのだが

ほとんどの人は自分では

そうと気がつかない。


口が粘ってるな

と感じたら恐らく匂っているはずなので

水を飲むなりガムをかむなりの対処をすべきだ。

 

 

一発で口臭を取り、細菌を減らすには
「塩」で歯茎を軽くマッサージする事。

 

特に起きたての時には口臭が強いので

毎朝実行してほしい。


元々塩には細菌繁殖を抑える働きがあり

又ぬめりを取るのにも適している。


更に高齢者に多い

誤嚥による肺炎の予防にもなる

と思われる。

 


物を飲み込むのは

舌咽神経などの脳神経が関与しているが

歯茎への刺激が程良くこの神経を活性化してくれる。

 


但し極く軽く行なわねば

歯茎を傷つける恐れがあるので注意が肝心だ。

 

 

 

以上心と体を保護すべく

様々な提案をさせてもらった。


これで完璧に苦悩を解消し、征服し得るのだ!

と云いたい所ではあるが、、、、、、、、、、、、、、、

 


残念ながらまだ

不完全と云わざるを得ない。

 

それは

我々に諸々の影響を与える

外的なエネルギー」への処置を抜きにしては

対策として、完全足りえないからだ。

 


しかしこのテーマは

現実から遊離しすぎているが故に
条理を尽くしての説明が難しく

理解納得を得る事は誠に困難と思える。

 


本音を云えば避けて通りたいのだが
しかし現にそれらのものが存在し

少なからぬ影響を

我々に与えるのは間違いのない事実なのだ。


好むと好まざるとに拘わらず

これに対処しなければならない現実がある。

 

偏見予断などを抜きにして、虚心に聞いてほしい。

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16

3月

2010

「口の災い?」

「口の災い?」

さて体のケアの最後に口の中

 

特に歯の問題
について一言云っておきたい。


口内細菌による歯周病は

放置しておくと色々、トラブルを引き起こす。

 


腫れて痛んだり、抜け落ちたり

歯並びが悪くなり

噛みあわせが狂ったりする可能性もある。

 


それは脊柱他、

体の各部に悪影響を及ぼす恐れもあると指摘されている。

 


口のケアが悪いと

細菌自体が全身に拡がることもあり
体力の衰えている時には

肺炎を引き起こしたり、糖尿病を悪化させる事もある。

 

 

私は六十才までに六本の歯を

無知のために失い

 

歯並び矯正の治療で二年近くの

苦痛と不自由を余儀なくされた上
少なからぬ治療費が乏しい財布から

寂しさと嘆きだけを残して消え去っていった

という愚かな経験を持っている。

 

 

歯のケアは

ブラッシングだけでは不十分で

歯間ブラシピックという

爪楊枝のようなものでしっかりケアしなければ


私のような経験をする事になるぞ

と警告しておきたい。


歯の苦痛は結構強烈なので

充分気をつけてもらいたい。

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16

3月

2010

「目のトラブル」

「目のトラブル」


老眼だ、白内障だと

歳とともに色々な問題が発生してくる。

 


人ごとだと思わないで

人の患っているものは

自分にも可能性があると

注意してほしい。

 


目の不調にしても

老化が大きな原因となるのは

他の疾患と同じではあるが

 

環境やストレス

その他により発病や進行に

かなりの個人差がある。

 

又、その真因も

必ずしも解明されているとは、云い難い。

 


しかし

視神経はじめ頸や頭の血行が

正常になれば恐らく

予防もある程度可能だし

又進行を遅らせる事もできると思う。

 

 

具体的には
頸、肩の凝りを解消する。


目が疲れたと感じたら

目を閉じ眼球からスーと力を抜く。


アイマスクをして目を開け

きれいな風景を描いてみる。

(これは疲れを取るだけでなく

視力もよくなる可能性がある)

 

 

それから

レンズに相当する水晶体を調節する毛様体筋。

 


近くのものばかり見ている為に

この筋肉が疲労し

血行障害を起こしている事が多い。

 


故に、近くのものを10秒ほど凝視。
次に遠くの景色を同じく10秒。
これを何度か繰り返す。

 

 

これにより

この筋肉の循環がよくなり調節能力がアップする。


従って

老眼だけでなく近視もある程度

回復すると思う。

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16

3月

2010

「睡眠の悩み」

「睡眠の悩み」

 

さて次に

歳を重ねるに従って生じてくる

様々なトラブルについて

考えてみたい。


日々の睡眠も結構、悩みの種になりやすい。


大部分の人は加齢とともに

睡眠が浅く短くなり

夜中に何度も目覚めたり

又、寝付きが悪くなったりする。

 


当然

若い頃より体を動かす事が少なくなるから

本来睡眠も少なくてよい筈なのだが


良好な睡眠に対する望みや思い込みの為に

あせりやイライラが生じ

逆に睡眠を妨げる事になる。

 

 

睡眠不足の本当の害というものは
それ自体による肉体の損傷ではなく

健康によくないという思い込みや不安など

自ら発する思いが

第二の矢となる所にある。

 

 

本当に危機的な睡眠不足であるなら

脳は自らを守る為に

どのような状況でも体を眠らせようとする。

 


かつての旧日本軍では

夜を徹しての過酷な行進時に

歩きながら眠っていたと聞いた事がある。

 

眠れない時は無理に寝ようと

あせらないで
無心に体の力を抜いて

リラックスする。

 

 

先程述べた

自律神経訓練法を行うのもよいだろう。


目を疲れさせれば、眠りやすいので
アイマスクをした上で

薄目を開け、一点凝視を続ける。

 


それから緊張を緩める音楽などを聞くのも

よい方法だと思う。


又、足が冷えると

トイレに何度も行きたくなるので

暖かい靴下を履いて寝る習慣を

つけて貰いたい。

 

 

やや深刻な場合の対処法を一つあげて

この項を終わりたいと思う。

 


ゆっくりリラックスして

瞼の裏に黒板を想像する。


チョークで円を描き

その中に100という数字を書く。

 


その横に「もっと深く」という文字を入れる。
そして想像の黒板消しで

100の数字と

もっと深くの文字を消す。


円の中に99を入れ

又、もっと深くと書く。


順次98、97、96と書き換えていく。


力を抜き楽に行えば

自然に睡眠モードに入れると思う。

 

とにかく

寝なければ体に悪いと云う

思い込みさえなければ、何らの問題はない!

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16

3月

2010

「自律神経訓練法」

「自律神経訓練法」

その緊張による害から内臓を守り

 

傷ついた神経や心を優しく癒す為
この自律神経訓練法というものを

実行してほしい。


その効果についても一定の評価がなされ

知る人も多いと思うが
一応ここで取り上げてみたい。

 

 

 

先ず、仰向いて寝るか

楽なイスに腰掛け深呼吸を繰り返す

 


気分がゆったり落ち着いた状態で
最初に右腕に注目し

腕が重い、又は暖かいと思い込む

 

潜在意識という深い領域に働きかける

一種の自己暗示なのだが
これにより筋肉の緊張が弛み

血管の圧迫が除かれ血液が流れやすくなる。


動脈血はとても温度が高いので

実際に、暖かく感じてくる。

 

次に左腕、右足、左足と

同じ様に思い込んでゆき

胃も暖かいと続く。


それから

心臓が規則正しく動いている

充分暗示して

 

呼吸がとても楽だ、と肺に意識を注ぐ。

 


最後に額が涼しい

何度か自分に語りかけ

 

気分がとても落ち着いて楽だ

で終り。

 

 

ゆっくり気分よく何回か繰り返せば

積りに積った神経の疲れが徐々に癒され
内臓にも充分の血液が運ばれる。

 

少し不調を感じる部分があれば

重点的に行う事で回復も早くなるだろう。

 

この方法により

緊張を解消し

元気で生き生きした生命力を

取り戻してほしい。

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02

3月

2010

「姿勢を美しく保つ」

「姿勢を美しく保つ」

我々のバックボーンである背骨は
頸椎7個、胸椎12個、腰椎5個

 

そして1個の仙骨(仙椎5個)と

尾骨により構成されていて


脊柱起立筋他の筋肉により

しっかり保持されつつ体を支え

運動を可能にしている。

 

 

脊柱には4つのカーブがあり

直線的な一本の柱よりも

16倍の強度を生み出していると云われている。


即ち頸椎と腰椎の前湾

胸椎と仙骨部での後湾がこれに当たる。

 


このカーブが生理的な状態ならば

その人の姿は誠に美しく

健康的だと云える。

 


が、
最近の若者の姿勢を見ていると

丸く曲がっていたり

側湾してねじれている者が

非常に多いように思える。

 


健康面だけでなく

精神面までねじれてしまわないかと

老婆心が頭をよぎる。

 

 

そのほとんどが

日常生活に根差しているのだが
骨自体が変形し

固定化しているものは割と少なく

ストレッチなどで時間をかければ

必ず正常に戻る。

 

職業による姿勢の悪さからの変形を除けば

テレビが最大の原因とも考えられる。

 


一日2~3時間テレビをみるとしたら

何と一年で約1千時間!

 


背骨を曲げるには充分な時間だ。


故に只じっと見るだけではなく

体の各部をじっくり

ストレッチしながら見てほしいと思う。

 


効率よく筋肉を伸ばすには

40秒ほどの時間が必要

と云われているが

実行してみると

これが結構長く感じるものだ。

 


しかしテレビを見ながらだと

割と楽に出来るので是非取り入れてほしい。

 

イステーブルにしても座卓にしても

脊柱としては正座の姿勢を保つ事が重要だ。

 


従って

腰の最もカーブしている

腰椎4~5番目辺りに物を当てて

前湾をしっかり維持してほしい。

 

背もたれのない状態は

腰の筋肉に非常な負荷をかける。


あぐらという座り方も習慣になれば

いつかは腰痛を発すると思われるので

座イスを使って腰を保護すべきだと思う。

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23

2月

2010

「冷えへの対策」

「冷えへの対策」

 

 

 

血行を妨げ、筋肉を拘縮させ

老化を速める恐れのあるこの冷えは
それだけにとどまらず

女性にとっての大敵である

婦人病の原因にもなる可能性が大きい。

 


足が冷たい、という自覚がなくとも

大部分の人は冷えていると云える。

 


冷房だけでなく、暖房している時でも

上半身に比べて

下半身は冷えやすいもの。

 


空気は暖めれば上昇し

冷やせば下に留まる性質を持っている。

 


又、血液は通りやすい所へ

より多く流れるもの。 

 

従って下半身の血行が悪くなり

足が冷えるという事になる。

 

この冷えに対しては

少しぬる目の半身浴を奨めたい。

 


本などを見ながら

ゆっくり下半身を暖めてもらいたいと思う


家庭の風呂で足を充分暖める為に

結構長い時間

湯に入っていなければいけないが

少々心臓などに負担が掛かりやすい。


この方法だと

汗が充分出るまで入っていても

何らの問題はないと思う。


 それから睡眠時

夜中や夜明け時には

思いの他、足が冷えるものだ。

 


それを防ぐ為に

靴下を履いたままで寝てほしいと思う。

 (もちろん専用に使い、ゆるめの靴下で。)

 

人によっては足の皮膚呼吸を妨げる

という人もいるが
それなら全身の皮膚呼吸の為に

素っ裸で寝なければいけない事になる。

 


最初は慣れなくて変な気分だと思うが

その内必需品になるだろう。


 冷房の利いた部屋で仕事をしている人は
ズボンや靴下を重ね着する位でないと

冷えから身を守れない。


長年に亘れば

少なからぬダメージを受ける恐れがある

警告しておきたい。


後、運動による冷えへの効果も

前に述べた通りで

その必要性については

充分分かってくれていると思う。

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23

2月

2010

「あるもの感謝」

「あるもの感謝」

 

いかに優れた知能を持ち

豊かな学識を誇っていても人は

何かを失くさないと

その物の価値に気付かないという

愚かな面を持っている。


失ってはじめて

その有難さを思い知ると云う経験は

恐らく誰にでもあると思う。

 

 

もしそれが存在しているうちに

或いは自分がそれを持っているうちに

その価値を認識できれば
恐らく心安らかで

有意義な日々を送れるのではないだろうか。

 

 

【ない物ねだり】をするが故に人は

結局失望したり苛立ったりして

心の平安をかき乱される事になる。

 

平和で豊かで

自由が保障されているこの日本。


そのありがたい現状だけでなく

普通に息のできる事も

物が見える事も
そして普通に話せる事も

耳の聞こえる事も


本当は当り前ではなく

極めてありがたい事なのだと

気づいてほしい。

 


普通に歩けて、物が考えられて

極くありふれた日常を送れる事の

幸せを悟ってほしい。

 


そしてその為にこそ

あるもの感謝をすべきだと思う。

 


手足、視力、聴力など

今持っていて当然と思っているものを

一度失くしたと

真剣に想像してみてほしい。


実際に目をつむって歩いたり

手足を使わず

日常生活を送ってみてほしい。


又、一度でもいいから

断食などを経験してみてほしい。

 


そういう経験は
失くさぬ内から価値を知ると同時に

失って失意に沈んでいる人々への

同情と愛を

芽生えさせてくれるのではないかと思う。

 

 

苦を知る事が
      幸せの第一歩であり
 足る事を知り、ある物感謝をしながら     
        すべてにベストを尽くす
             そして結果は気にしない。

 

これが

心の苦しみに対する最善の方法だと

私は確信している。

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20

2月

2010

「少欲知足(しょうよくちそく)」

「少欲知足(しょうよくちそく)」

 

 

人の心の移ろい易さを考えれば
今欲しているものを得て

喜びを感じたとしても
それは余りにも、はかないと云う他ない。


瞬きする程の

刹那的な快でしかないものに

多大なエネルギーを消耗する。


その快は次第に色褪せ

次なる欲望の前では

もう何の魅力にもならない。

 

 

まるで

次々と玩具をほしがる幼児のように
我々大人も快に突き動かされ

振り回されて人生を虚しく終えるのだろうか。


そうならない為にも

足ること
つまり多くを望まず満足する事が

非常に大事だと思う。

 

 

大志を抱き多くを望むが故に人は
努力もし

志を遂げる事ができるものと

考えられている。

 

 

実際

功成り名を遂げた立志伝中の人物の話は

結構聞こえてくる。 

 

しかし、京セラの創始者の稲盛氏の様な
人類愛に基ずく

素晴らしい行跡を残す人は

極めて稀と云わざるを得ない。

 


多くはわが身一つの栄華に慢心したり

心、傲慢に堕したり
大多数の人間から見れば

それ程の価値も影響もない事が

多いのではないだろうか。

 

 

何を為したか、よりも

如何なる想いで行ったか

の方が遥かに重要だと思う。

 


歴史上の人物の中でも

豊臣秀吉の生涯が

それを象徴している様に私には思える。


天下を取るまでの彼は

人たらしと云われる程

人心を掌握し心酔者を多く作った。

 


しかし晩年の

子への盲愛からの執着により

随分多くの殺生もし

哀れな老醜をさらしている。

 


天下を取る程の人物にして

斯くの通りである。


まして我々凡人に於いては

尚更ではないだろうか。

 

欲望の代わりに使命感や

人への愛を大きな力として

人生を生きるほうが
遥かに幸せへの近道であり

大いなる徳を積むという事になると思う。

 

 

「吾、唯、足るを知る」という

淡々とした清々しい生き方ができれば

どれ程素晴らしい事だろう。


そして今の自分を

あるがままに感謝できればどれ程

心安らぐ事だろう。

 


自分にまつわる全ての事に

条件を付けずにありがたい

と真に思えたらどれ程幸せだろう。

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16

2月

2010

「ベストを尽くすのみ」

「ベストを尽くすのみ」

 

仕事に精一杯打ち込み、情熱を傾けていながら

次第に虚しさに取りつかれ

「うつ」を発症するケースが非常に多いと

前章で語ってきた。

 

 

 

仕事だけでなく

対人関係や様々な面で真剣に

努力しているのに
思わしい結果が得られず

悲嘆にくれている人も誠に数多い。

 

 

真剣なるが故に

苦しんでいる人に

是非取り入れてほしい考え方。

 


それが

 「何事にもベストを尽くし

   しかも、その結果については

       決して捉われない!」

 

と云う事なのだ。

 

 

自らの事だけでなく、人に影響が及ぶ場合

なまじ責任感があるが為に

その結果を必要以上に感じ

悩む人も多いと思われる。

 

 

しかし
一人の人間としての能力や影響などは

どうし様もない程無力な我々に

 

一体、何ができると云うのか!
只ひたすら、努力する以外に!

 


結果と云うものは

個人の望みや想い、責任を離れ
ある因果関係や縁というものに

左右されるもの。

 


それを理解する能力も

見透す手段もない我々には
ただただ努力する以外

為すべき事はないと云わざるを得ない。


前に述べたように

半端な期待や望みは多くの場合

失望に行き当たる事になる。

 

 

いかに尊い使命感

情熱を持っていても
それと、結果とは別問題として

考えなければいけないと思う。

 


結果について

くよくよ悩んだり

嘆いたりする暇があるなら
より多くの努力を傾ける方が

賢明ではないだろうか。

 

 

どんな事にも執着を持たず

何事にも捉われず

さながら、水の流れる如くさらさらと

そして生き生きとした人生を歩んでほしい。

 


仕事だけでなく

全てに完全燃焼して

悔いのない生涯を送ってほしいと思う。

 


が、それ以上に結果への

期待、執着を持たないようにと

云っておきたい。

 

 

又、金銭、地位、名誉、権力。


そういうものに心ひかれてはいけない。


それらは

それ自体が目的になった時

わが身を惑わせる麻薬の様なものと化して

結局人を苦しめる事になるだろう。

 

誠に人というものは

非力な、ひ弱い存在だと

云わねばならない。


同時に

すべき事はなかなか出来ず

してはならない事は止められないという

怠惰な部分をも

少なからず抱えている存在でもある。

 


それ故に日々

易きに流されず

常ならぬものに心奪われる事なく

ベストを尽くすように心掛けてほしい。

 

 

極めて難しいと思うが

決して不可能事ではない。

 

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09

2月

2010

「執着の恐ろしさ」

「執着の恐ろしさ」


各論的に

身体各部のケアの仕方については
後ほど述べる事にして


次に

心の悩み苦悩についての対処法

考えてみたいと思う。

 

 

心の苦悩となる悩みやストレスは

前に話した様に

自ら発する第二の矢の障害に他ならない。

 


同じ苦痛についても

死ぬ程の苦しみと感じたり

割と平気であったりと

個人によってその受け止め方は、著しく違う。


それは

そのものに対する執着捉われの違いだと

理解してくれているものと思う。

 

執着などが強すぎれば

障害を受けた時の怒りや苦しみは
当然のように、強烈なものとなる。


この時の第二の矢は猛威を以って

心だけでなく肉体をも傷つける。


その力は

誠に恐ろしいものと云わねばならない。


故に普段から

この執着捉われ

こだわりの想いを減らすべく
努力しなければならない、と思う。

 

 

肉体をも含めて物質的に

自分のもの!

というものは
実は、何も存在しないのだ。

 

 

この肉体にしても、単なる服にすぎないし
物や金、身を飾る肩書き等にしても

死ぬ時には全て

かなぐり捨てなければならない。

 


死ねば消滅するのか、何かが残るのか。

 


実の所は不明ではあるが
何かを持っていけるとしたら

それは心や意志

自ら行った言動の記憶であり
決して物質的なものや

金銭的なものではないだろう。

 

 

にも拘わらず人は、執着に翻弄される。


どうすれば

この恐ろしいものを減らしたり

消滅させたりできるのか?

 


これが誠に

難しい問題と云わざるを得ない。


なぜなら物や金さえあれば

「快」を生み出す欲望の大部分を

満たすことが可能だから。


そして、その事が唯一の

最大の幸福だと人が考えていることによる。

 

 

欲望の充足や、快を求める我々人間の
本能的な欲求は

とてつもなく強烈なものと

何度も語ってきた。

 

 

その人間本来の姿を

釈尊は次の様に喩えておられる。

 

 

奈落の底へと続く様な

深く暗い井戸の

切れそうな釣瓶につかまって

非常によく切れるナイフに

 

付いている蜜の甘さに

酔い痴れているのが
即ち、凡なる我々衆生だと。

 


奈落に落ちる危険

ナイフで自らを傷つける怖れ。


又、井戸の周りでは

人食い虎が徘徊して命を狙っている

という恐ろしい状況。


思慮分別なく

ナイフの蜜に酔いしれると云う事が

即ち執着捉われに他ならない。

 

 

これ程激しく、強烈なものであるが故に
一朝にして想いが成るということは

決してないと云えるだろう。

 


その恐ろしくも

愚かしい姿を常に忘れず
日々、自らに働きかけねばいけないと

云いたいのだが。


しかし未だ起こらざる

経験せざる苦しみに思いを馳せ

それに対処しようとする人は

残念ながら極めて少ないと思われる。

 


こういう、賢者と云うに相応しい人は
恐らく何度も何度も苦しみの生涯を送り

その境地に達したのではないだろうか。

 


苦しみの体験を通さなければ
我々凡人は

執着などから解放されない

と云うことなのかも知れない。

 

その様に考えると何やら

うら哀しい想いを禁じ得ない。


しかし、それ故にこそ、
この忌まわしいものを少しでも減らし

自ら苦しみを作り出す

と思われる考え方

感じ方を変える為の

対処法を真剣に考えて貰いたいと思う。

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09

2月

2010

「有酸素運動」

「有酸素運動」

 

以上述べた方法は云わば

君達が運動に縁のない日々を重ね

健康に自信を失くした時の為のものと云える。


出来れば

若い時からスポーツに親しみ

心身ともに健康な状態を維持してほしい。

 


少々無理をしても

若いうちは抵抗力も回復力も旺盛だから
目一杯スポーツに打ち込んでほしいと思う。

 

全身の全ての組織細胞を

まんべんなく刺激し活性化する為に

運動する訳だから
当然それは

全身運動でなければならない。

 


一応スポーツや運動と名がつけば

全身を使うのは間違いないのだが
競技としての運動は

部分的に負荷がかかりすぎてしまう嫌いがあり

特有の怪我故障が起こりやすい。

 


故に中年以降には

単調で面白みに欠けるが

ジョグをはじめ、水泳サイクリングなど

充分酸素を取り入れながらする

有酸素運動が好ましいと云える。

 

 

体力に自信がついてくると
それに応じて

レースなどに出てみたくなる。


だがレースと云う競争の場につけば

やはり、つい無理をしがちで

細胞を傷つける活性酸素を

大量に発生させる危険もあるし

怪我と故障の危険も

当然、増えてくる。

 

本末転倒にならないように
慎重にかつ

大きな喜びとして

運動を楽しんでもらいたい。

 


これで対策としての

運動の項を終えたいと思うが
脳循環の改善、血液浄化、体力向上

そして、ストレス解消など


筋肉を駆使しての

運動の素晴らしい働き

能力のすごさを

重ねて強調しておきたい。


終生心身ともに健全で

快適な状態を維持したいと望むのならば

運動は絶対に必要なのだ!

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06

2月

2010

「超スロージョギング」

「超スロージョギング」


運動の必要性は重々自覚し

実行してみたいと思っているが

続ける自信のない人は

多いのではないだろうか。


こういう人に勧めたいのが、

歩く速度のジョギングだ。

 


歩幅を小さく、軽く走る。


人に歩いて貰って

その速度で走ると云う事なのだが

最初はやや恥ずかしいかも知れない。

 


しかし

病気予防スリムな体型の為に

ひたすら我慢。

 

時間的には

運動にほとんど縁のなかった人の場合

一回に分。


週に最低三~四回。

 


ジョグの前後には

一〇分から一五分程度のウオーキングをはさむ。


これを三か月続ける。

 

 

この期間は痩せるためではなく


三十分、一時間走っても

大丈夫な筋肉と

関節を作る大事な期間

認識して貰いたい。


その後、二か月に五分ずつ増やす

 

もちろん

違和感を感じたら絶対に休養する事


一年頑張ったら何と三〇分

楽にジョグができる様になる。


この頃になると

脂肪が燃焼しやすくなり

スリムになると同時に

体力も各段にアップするのは間違いない。

 

走る事がとても楽しくなり

より速く、より遠く!

と云う欲望が必ず芽生えてくる。

 


しかし無理をすれば

故障怪我に悩む事になりやすいので

注意が必要だと警告しておきたい。


ある程度体力のある人の場合は、
スロージョグを

十五分位から始めてもいいと思う。


但し三か月、このペースを守る


これが非常に大切な事柄だ。

 

一念発起した人が挫折するのは

基礎ができてないのに

 

最初から無理をしすぎる所にあり

 

どこかを傷めて
中断の、やむなきに至るケースが余りにも多い。


体力の衰えが、自分の思っている以上に

深刻である場合が多いようだ。

 

三か月我慢ができれば
後は一か月に五分ずつ増やしてゆく。


これで、一年後には引き締まった

スリムなそして

健康的な肉体の持ち主になれるだろう。


とにかく、基礎が大事!


じっくり、取り組んでほしいと思う。


後、ウオーキングについて。


日々頑張って歩いておられる人は、とても多い。


確かにウオーキングは

賢者のスポーツと云われ

安全で理想的な運動と云える。


が、五十代前後の人が

充分な運動量を得ようとするなら

一時間以上は必要ではないかと思われる。


もちろん

しないよりは遥かに有意義だと云えるが

血液を浄化し、体力抵抗力をつける為には

二十分や三十分では少し不足かも知れない。


時間的に制約のある人の場合は

やはり軽いウエイトを足につけて

歩く事を勧めたい。

 

紹介した、いずれの運動にしても
無理をせず

楽しんで実行する事が最も大切な事で
これが継続する為の

最もよい方法だと確信している。

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06

2月

2010

「足かせで鍛える」

「足かせで鍛える」

 

時間的に全くゆとりがないとか
そんな事は邪魔くさいと云う

少し困った人への方法としては


足首に軽いウエイト(重り)を巻きつけて

家事などをして貰うしか

方法は無いと思われる。


もちろん

膝や腰に異常のない場合に限りだが

軽いウエイトでも毎日続けていれば
間違いなく足に力がついてくる。

 

市販の物もあるが

最軽量でも五〇〇gはあるので

自分で作ればよいと思う。


最初は二〇〇g位が適当で

徐々に重くしてゆけば問題は全くないだろう。

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02

2月

2010

「スローステップ運動」


「スローステップ運動」まず高齢で歩行も

 

やや心もとない場合の運動として
踏み台を利用したステップ運動を勧めたい。


高さ約二十センチ位の踏み台を

ただ登ったり降りたりするだけの

簡単な方法なのだが
続ければ必ず、足が強くなる


これを自分の体力、足の状態を考慮して
二、三分から始めて徐々

日を追って増やしていけばいいと思う。


退屈しないようにテレビでも見ながら

何かに摑まって

ゆっくり実行してほしい。


但し、功をあせって

急に回数、時間を増やしすぎれば

故障の原因にもなるので
くれぐれも焦らず

ゆっくり楽しんで行って貰いたい。


速度は一秒に一回よりも、ゆっくり目。


右、左で登って、左、右で降りる。


次に左、右で登って、右、左で降りる。

 

最初は、とにかくゆっくり


滑る恐れもあるので、裸足の方がよいと思う。

    継続は力なり!

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02

2月

2010

「第二の心臓」

「第二の心臓」

 

その、楽な方法

具体的に提案していきたいが

もう少し筋肉の素晴らしい能力

働きを理解してほしいと思う。

 

脳への血行の次に云いたいのは

全身の血液循環に対する大きな役目だ。


全身には心臓の拍動によって

酸素と栄養が運ばれていくが

心臓に還る静脈にこの拍動は届かない。


足の先から心臓へ還るその流れは

重力に逆らって昇っていかねばならない。


逆流を防ぐ弁があるだけで

苛酷で孤独な闘いを静脈は

休みなく果たしてくれている。

 

足の筋肉を押さえてみて硬ければ

間違いなく疲労が極度にたまり

毛細血管が押しつぶされて

血液が流れにくくなっている。


この時に、運動により筋肉を動かせば

その刺激が恰も

心臓のポンプの様に働き

静脈の還流が促進される。

 

筋肉が

特に足の筋肉が第二の心臓

と云われる所以である。


又、血液自体にも大きな影響がある。


適度な運動は、脂肪を燃焼し

コレステロールや中性脂肪を正常に保つ

と、医学的に証明されている


サラサラ血液を維持したければ

やはり運動が絶対に

必要だと云わねばならない。


それから、運動によって熱が造られるので

冷え性の悩みも解消されるだろう。


温度が低いと

自然界でも科学反応などは低調で

やや鈍くなるようだが


人体においても

体温が低いと各細胞や遺伝子の働きが

不活発になると考えられる。

 

その他筋肉が弱ると

脊柱を支え関節を動かす本来の働きが

しっかり果たされなくなり

姿勢の狂いや関節の故障が起こりやすくなる。


ギックリ腰はじめ腰痛の多くは

衰えにより短かく硬くなった筋肉が

ムリに引き伸ばされて

炎症や痛みを起こす。


立ち座りや歩行時に

筋肉がしっかり関節をサポートできなければ

徐々に膝も傷んでくるだろう。


よく運動し、血流が充分あれば

軟骨のすり減りも

かなり少なくなると思われる。

 

又、我々の体内には

無数の細菌やウイルスが潜んでいるが
血流がスムースで

サラサラ流れていれば

大して増殖もせず脅威にはならないが
コリなどにより停滞すれば

爆発的に増える可能性があり

次第に、免疫の能力も低下すると思われる。

 


このように

筋肉は我々にとって

誠に素晴らしい働きをしてくれている。


感謝を込めて

ゆっくり楽しく筋肉を鍛えてほしいと願う。


さて、運動の方法や強さは

その人の年齢や体力

故障や不調のあるなしにより

当然違ってくる。


ここでは

今まで運動に縁のなかった人や好きでない人

又少し体調に不安を持っている人

を対象にして話を進めていきたい。

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02

2月

2010

「筋肉の偉大さ」

「筋肉の偉大さ」

 

次に、運動について。


運動不足の怖さと

それ故の必要性については

多少理解して貰えたとおもう。


その運動の主役である筋肉の働き

について

少し考えてみよう。

 

たった指一本動かすにも

実際は結構大変な作業が

脳や体の中で起こっているのだ。


何かの刺激を受けて

脳がこれを感知認識し

手や指の筋肉にこの様に動けと指令をだす。


その信号が神経を伝わり

手指の筋肉に届いて始めて

思い通りに動くと云う事になる。


複雑な動きをすればする程

指令を出す脳の血流は増加し

結果的に委縮や認知症の予防になると思われる。

 

つまり

運動によって脳を

健全に保つことが可能であり

又それが筋肉の重要な働きの一つ

だと云えるだろう。


高齢になっても

よく筋肉を使い運動している人は

健康はもとより

頭も、しっかりしている人が多い。


健康は保たれ

認知症などの予防になると云うのに
なぜ人は運動しないのだろう。


疲れる。しんどい。じゃまくさい。

と、忌避するのだろうが

やり方次第で

楽に、軽々と体力をつける事は可能だ。

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30

1月

2010

「尊い犠牲」

「尊い犠牲」

 

脈々と燃えていた命の灯を

我々はわが身の為に

利用させてもらっている。


まずいとか嫌いとか

そういう事自体


正に

 

命に対しての冒とくであり

傲慢以外の何物でもない。

 

医食同源と云う。


食べる事が楽しみとは云っても

身を養い健康を維持し

回復する為にこそ食は存在する。


この命の犠牲と云う事に

無関心無神経でいるのなら

 

そして
おいしさだけに拘る食事をしているのならば

生活習慣病の

暗く長いトンネルが

大きな口を開けて待っている!

と云わざるを得ない。

 

食材としては

三十品目摂ることが望ましい

とされている。


できるだけ色々なものを摂る事で

体の各器官が必要とする栄養が行き届き

バランスのとれた

非常によい状態になると思う。

 

所で

君達には比較する経験がないから

ピンとこないだろうが

今は誠に恵まれた時代なのだ

と云う事を知ってほしいと思う。


かつての日本の歴史の中で

今程豊かで

豪華な食事をしていた時代はないと云える。


ごく幼かった頃の私にも

イモやスイトンではなく

いつになったら白いコメのめしが

腹一杯食べられるのかなあ

と、しみじみ感じていた記憶がある。

 

 

終戦直後からみれば今は

正に隔世の観があり

こう云う時代になるとは想像もできなかった。


やはりその様な

ひもじさを経験したからこそ

我々の世代の人間は

食べ物のありがたさを身にしみて感じ

又、その価値を充分に悟っている。

 

どうか

この豊かさを当り前だと思わずに
食に対する感謝の念を持って貰いたい

切に望んでいる。

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25

1月

2010

「ゆっくり噛む事の重要性」

「ゆっくり噛む事の重要性」

 

 

わかっていても

やめられないと云うけれど

病気の怖さ、辛さを考えれば

本当は理解できてないのかも知れない。


つまり

危機感が少し不足している

と云わざるを得ないと思う。


メタボの人は

まず真剣に心筋梗塞や脳梗塞の

恐ろしさを考えてほしい。


患った人の大部分は

自分だけは大丈夫という

根拠のない自信を持っていたのではないだろうか。

 

 

正当に危機意識を持つことが

メタボからの脱出の第一歩だと云いたい。

 


それでなければ

強烈極まりない欲望や快の感覚を

制御できるものではない。


革命的に習慣を変える必要がある

とはいうものの

 

実際的には
日々の小さな工夫

努力が継続できるかどうか、だけだ。


病気の怖さを意識し

餓死に瀕している人々の事を念頭において
少しずつ実行すればいいと思う。


何をするか?

 

ただ、よく噛む。


それだけである。


少々メタボの人は

よく咀嚼せずに早食いの傾向がある。


故に

いつもの二~三倍

よく噛んで味わってほしい。

 

満腹感というものは

胃が一杯になって生じるものと思いがちだ。


が、実際は咬筋(咬む為の顎の筋肉)と
歯根膜と云う歯の組織からの

刺激を受け

脳が、これを感じて成立する。


従ってとにかく、よく噛むこと。

 

これに尽きるのだが

それにより

唾液のもたらす副次的効果も

大いに健康に役立つ


空腹感と云うのは

読んで字の如く感覚である。

 

人間の感覚は
訓練すれば非常に鋭敏にはなるのだが

本来

どちらかと云うと鈍いのではないか

と思われる。

 

例えば

20度の部屋にいるとしよう。


冬、外気温が0度に近い位

冷え込んでいれば

20度はとても暖かく

暑いとさえ感じるかも知れない。


だが

35度以上の猛暑の時の20度は

涼しいと云うより

やや寒く感じるのではないだろうか。


同じ20度の温度なのに

寒く感じたり暑く感じたりするのが

我々の感覚なのだ。

この空腹感も

およそ一五分位我慢すれば

ほとんど消滅し空腹を感じなくなる。


故に

お腹が空いたからと云って

すぐにガツガツ、バリバリ

大食い早食いする事をやめて

ゆっくり

よく味わって食事してほしい。


できれば

食材達への感謝を込めて。

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25

1月

2010

「幸せの礎(いしずえ)」

「幸せの礎(いしずえ)」


幸せを考える場合

心身の健康を無視しては語れないし
健康こそが

幸せを築く為の第一条件ではなかろうか。


まず、肉体面における健康から考えてみよう。

食事と運動とストレスが

健康に大きな影響を及ぼすと、くどい程述べて来た。


繰り返しになるかも知れないが

最初に食事の問題を取りあげてみたい。

 

一日三度

一年で約千回の食事を

我々は取っている事になる。


人生八十年とすれば、なんと、八万回


今、日本の人口、約一億二千万人。


この膨大な数の胃袋を満たす食材は

と考えれば少し、めまいがしそうだ。


ましてや、これが世界全体となれば。


想像を絶する膨大な生命が

食材として命を絶たれていると云う事だ。

(その意に反して)


動物にしろ植物にしろ

食材になりたいと望んでいる者など

決していない。


我々はもっと、その事を考え

感謝しながら食事したいものだ。


頂きます」という言葉は

命を申し訳ないが頂きます

という事でなければいけないと思う。

 

ともあれ

その膨大な回数と量の故に

健康への影響は

とてつもなく大きいものがある。


それ故に食事の質と

一回一回の量が極めて重要になる。


日本が世界に冠たる長寿国になった背景には

医学の発達と国民の勤勉性が

その原因の一つではあるが

伝統的な

和食が大きく影響しているのは

間違いない事実だと思う。


今世界で

とりわけ欧米で日本食が注目されているが

やや薄味の和食を基本にしてゆけば

健康を維持しやすいと思われる。

 


蛇足ながら
孫わ、優しいご飯」と憶えて貰えば分かりやすいかも。


ま、は豆類。 ご、はごま類

わ、はワカメなどの海藻。 
や、は野菜。 さ、は。 

し、はシイタケなどのキノコ類
い、は。 後、のご飯。

 

こういう物を食べていれば

孫が優しくごはんだよと

云ってくれるまで元気で長生きできると思う。

 

味付けについても

出来るだけ薄味に慣れたほうがよい。


塩分の取り過ぎは

血圧を上昇させたり、動脈硬化を促進させると

医学者も警告している。

 


なにしろ、八万回だから。


おいしい物を食べるのは

誰にとっても幸せな事ではあるが
味に耽溺しすぎたり

こだわりすぎれば質素なものを

顧みなくなるかも知れない。


金にあかして

世界から豪華で贅沢なものを取りよせ

貪り食っているように見える日本の現状。


いつまでこの状況が維持できるのか

うすら寒い思いを禁じえない。


戦後の経済発展に比例して、食も欧米化が進んできた。


最近の若者の体格も

欧米人並みに足も長く格好よくなっている。


しかし我々は

農耕民族の末裔で

米や野菜、そして魚を主食にしてきた

永い歴史がある。


肉を主食にしてきた欧米人の様に

動物性脂肪をうまく処理する遺伝子に

恵まれているとは、云えないだろう。

 

遺伝子の変化というもの

、誠に長い長い時間がかかるもので

百年や二百年で達成されるものではない。


過剰な肉食は動脈硬化を引き起こし

重篤な疾患の原因になる。


肉の脂と云うものは

カロリーになりこそすれ

栄養的には全く価値がないと云われている。


日本人が長生きで頭がよいのは

魚食文化のお陰かも知れない。


いや間違いなく

そうなのだと思う。

 

やはり魚をメインにして

きれいな血液を終生保つべきだ。


「注意一秒、怪我一生」の様な標語で云うなら
味は一瞬、害一生」。


どうか味と云うものに心奪われないで

正食、つまり健康に良いものを食べる様にしてほしい。

 


さて次に、量の問題だが
この日本では

もうかなり以前から飽食の時代だと

云われてきた。


それに対して色々と警告されてはいるし

その害についても熟知している筈なのだが

中々改善すのは難しいようだ

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23

1月

2010

苦しみの対処法

 
「苦しみの対処法」

さていよいよ

苦しみを解消し

日々幸せを実感する為の

具体的な方法について考察してゆきたい。


もちろん

ひたすら耐えねばならない

苦しみの存在する事は、るる述べてきた通りだ。

 


しかしそれについても

今まで語ってきた事を信じて貰えたとしたら

恐らく第二の矢を受ける事なく

時によれば
悠然と

それらに耐えられるかも知れない。


無益な、無駄な苦しみを

不必要に受ける事のない様に
心と体の両面に亘って

その方法を提示してゆきたい。

 

不幸や苦しみが

偶然やって来ないのと同様

幸せも自ら努力しなければ得られないのは

当然の事だ。

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19

1月

2010

「両刃の剣」

「両刃の剣」

 

この貪りと

それを自制しようとする人の葛藤は

我々の脳の働きと構造を見れば
分かり易いと思う。

 

 

自らの生命を維持

健康に保つための爬虫類脳(脳幹)。

 

自他を区別し

快不快、共感反感などの

情動の生み出される哺乳類脳(旧皮質)。

 

そして創造思考などの

高度な働きを担う霊長類脳(新皮質)。

 

 

もちろん

互いに補ったり抑制したりしながらも

概ねこの様な三層構造として

その機能は説明されている。

 


爬虫類脳や哺乳類脳の働きが強すぎると

当然自己中心的な行動を取りやすく
多くの人を振り回し

傷つける事になりやすいだろう。

 

その働きをある程度抑え

理性的な言動を取らしめる

霊長類脳があるからこそ

調和のとれた人間性を発揮できるものと思う。


しかし

この領域の働きも、一つ間違えれば

その優秀な頭脳の故に

人類に仇なす恐れもある。


人を効率よく

多量に殺傷する為の兵器を考え

作り出すのもこの新皮質でなされる。


正に、

両刃の剣と云うべきであり
暴走の

しっかりした歯止めのない現状に

危うさを感じてしまうのは

私だけではないだろう。

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19

1月

2010

「宇宙服」

「宇宙服」

 


我々は

肉体というものを持っているが
これは地球という星で生きる為の

云わば宇宙服だと考えればいいと思う。


つまり

この地球という環境に最も適合した

優秀な服だと云える。


人はその価値を完全に認識しているのか

少々疑問だが

 

ともかく
人類の最高の叡智を総動員しても

一個の肉体すら造り得ない。

 

素晴らしい機能を持った

まるで小宇宙のようなこの肉体には

その身をいつでも

健常に保とうとする本能

具わっている。


故障しても

怪我をしても自ら修復する能力があり

全ての面で常に

バランスを取る様にできている


もし

食べると云う事に喜びを見出せないなら

中には食事をとらず

身を滅ぼす人が出てくるかも知れない。


それ故に味覚が発達し

満腹になれば大いに満足し

幸せを感じるようになっていると思う。

 

睡眠欲というものが

ないとしたら眠る事をせず肉体

頭脳ともに疲労の極みに追い込まれ

変調を来す人も多くなるだろう。


性欲がなければ種としての人類は

恐らく絶滅の危機に

瀕するのではないだろうか。

 

種の保存という

強烈な本能があるからこそ

数百万年もの繁栄を

誇っていられると思う。


欲望が満たされた時に湧き起る

」の感覚が

二大本能を全うさせる為に

生物全般が創り出した

素晴らしい智恵だと云えるだろう。

 


あの花でさえ

受粉の為に甘い蜜を創り

虫や鳥を誘う・・・


種を残そうとする生物の智恵には

全く驚きを通り越して感動すら覚える。

 

 

 

しかし、、、、、、、、、

 

しかしである。

 

この智恵であり、褒美である

「快」に人が酔い痴れ

溺れてしまう所に

貪りの起こる原因がある

と云わざるを得ない。

 


この快という感覚こそが

「幸せ」

そのものだと考え


出来るだけその感覚に浸り

味わいたいと願うのも

最もなのかも知れない。


だがその追及は

節度や限度を超えると

執着、捉われとなり
余計な副産物を生み出したり

苦しみをもたらす事になる。

 

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19

1月

2010

「驕れるものと無常の風」

「驕れるものと無常の風」

 

健康や能力、環境などに恵まれ

勢いに乗り、何の問題もない絶頂の時には
苦しみや悩みなど

無縁のものとしか思えないだろう。

 

人の渇望して已まない財産

地位、名誉、権力などは

しかしその人の人生において
どれ程の保障と成り得るのだろうか。

 


ひとたび無常の風が吹き渡れば

それらのものは朝日の前の

霧や露の如く儚く消え去る事も少なくない。

 

 

驕れる者も久しからずの譬えは

過去の歴史のみならず
現在に於いても

決して稀な事ではないだろう。


垂涎の的であった者が落ちぶれ

逆境の悲哀を味わう惨めさは

恐らく想像を絶するものがあると思う。


しかしこの時にこそ

この魂は謙虚に自らを振り返り

人生を真摯に考えるのではないだろうか。


初めてその機会を得たと

云うべきかも知れない。


後にも触れるが

我々は決して安楽な、贅沢な生活

送る為に、生れてきたのではない。


学生が学校に通い、一心に勉強する様に
運動選手が身体能力を高める為に

歯をくいしばって努力する様に

人間は

魂を浄化し向上する為に生き

苦しむのだと思う。

 


ここにこそ

人が苦しむ本当の意味

理由があるのだと

私は確信をもって君達に云いたい。

 


単に偶然や不運だけが

苦しみの生ずる原因だと云うのなら
人間存在の虚しさに私は

絶望の想いを払拭する事が出来ないと思う。

 

絶対に。


希望や努力、目標などの言葉も

ただ虚ろに響くだけだろう。

 

苦しんだ分だけ、努力した分だけ人は

より良くなってゆく。


そうでなければ理屈や

法則にも合わない事になり

不条理だと云わずにはいられない。

 

もちろん結果は

機が熟し縁が実を結んだ時にしか

表れないのだが。


この時間的なズレこそが

その理解を阻む大きな原因だ

と云う事は、前にも述べた。

 


孫達よ
君達はこれらの事を理解し

納得してくれるだろうか。

 


無理に、又

にわかに信じろとは決して云わないが

根拠もないのに

否定する事だけはしないでほしい。


そういう事が在るかも知れないと

頭の片隅にでも

仕舞っておいてほしいと思う。

 

この章の最後に

なぜ果てしなき欲望が人について廻るのか。


貪りの心が

何ゆえに起ってくるのかについて

考えてみたい

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18

1月

2010

「貪、瞋、痴」

「貪、瞋、痴(とん、じん、ち)」

 

なぜ人は

苦しみをもたらす事を

敢えて行うのだろうか。


それについて少し考えてみたい。

 

実際は只

幸せになりたいだけなのだと思う。

 

わざわざ苦しみ悩む為に

人生を生きる人はいないだろう。

 


ひたすら幸せになる為に

必死の努力をしているのが

人間の在りのままの姿といえる。

 


しかし残念ながら、
真実の幸せに対する

正しい解釈ができてないが故に

負債を作っている人が多い様に思えるのだ。


人の心を惑わせ

蟻地獄の様な苦へと引き込むもの。


それが、釈尊の云われた

 

貪(むさぼる心)

瞋(怒り)

痴(無知)

 

の三毒だろう。

 

 

人の貪りの凄まじさについても

釈尊は警告されている。

 

「ヒマラヤの山を全て純金に変えて

これを二倍にしても
一人の欲望を満たす事はできない」
と。

 

実(げ)に恐ろしきは

人の慾の凄まじさではないだろうか。

 

そして瞋(怒り)。


自分に被害をもたらす者が

実は負債返済の協力者なのだと

もし信じられたら

怒りの大部分は発生させずに済むのではと思う。

 

さて、最後の痴(無知)


知らないと云う事

、愚かな行為の言い訳には決してならない。


この無知の為に

人はどれほど多くの愚行を繰り返し

人に迷惑や被害を与えることだろう。

 

この三毒が諸悪の根源であり

不幸、苦しみを生み出す原因なのだと

釈迦は説かれている。

 

釈尊の時代から二千数百年。


人の心は

当時より進歩しているのだろうか。


愛や心というものを

ないがしろにしている様にしか

見えない今の世相を

もし釈迦が見られたとしたら

一体どう思われるだろう。

 

 

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18

1月

2010

「魂の向上」

「魂の向上」

 


水は高きより流れ下るが

実体の創られた愛の流れは逆に

上方に向かって流れてゆく。


上に向かえば向かう程

我々の魂は浄化され輝きを増し

自ら感じる至福の想いは

この上なく高まってゆくものと思われる。

 

健康を害し病気の苦しみを

身にしみて感じた人は

健康の本当のありがたさを理解するだろう。

 


同様に

諸々の悩みに翻弄され苦しみ抜いた人は
人の苦しみをわが身に置き換え

心から同情し愛の手

差し伸べるようになると思える。

 

 

この様に

負債である苦しみを返済しながら

その体験によって芽生えた愛を育み
これを実践してゆく事が

つまり魂の向上ではなかろうか。

 


残念ながら人は

苦しみ悩みという辛い経験をしなければ

人を思いやる心が

大きく育たないのかも知れない。

 

 

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18

1月

2010

「貧弱な視力で」

「貧弱な視力で」

こういう人は

 

決して知性において劣っている訳ではない。


ただ

目に見えるものだけが全てであり
神をはじめ

愛や真心などというものは

人間の脳が創り出した

絵空言にすぎないと、考えているのだろう。

 

しかし

我々の目、つまり網膜について
少しでも勉強すれば

この感覚器がそれ程優秀なものではない

と云う事が明らかになると思う。


光がなければ

もちろん真っ暗闇で何も見えない。


我々の網膜が反応するのは

存在する光(電磁波)の

ほんの一部である可視光という光だけで

他の大部分のものに対しては

全く反応したり

これを認識する事はできない。


およそ

存在する光の六十分の一でしかない

可視光の貧弱な知覚で
全てを見透し理解し尽くした

との想いを持つ事は

少々傲慢にすぎないだろうか。

 

ここにこそ

「真理への曇り」と云うべきものの生ずる

根本原因があると思う。

 


逆説的に云うなら

 

我々の視力は

見る為のものと云うより

見えなくする為の器官だと

云えなくもない。


天文学においても

光学望遠鏡の他に

赤外線電波、X線望遠鏡など

多くの望遠鏡が開発され
これまで不明だった世界が

知覚しえる様になってきている。


全ての電磁波に反応する能力がもし
我々の視力にあれば

世界は全く違ったものに見える事だろう。


今まで見えなかったものが

見える様になり

驚愕する事も多いと思う。

 

小さな、小さな覗き窓から

外界の一部を見て

世界の全てを理解し得たと

考えているとしたら

少し、もの哀しさすら感じる。


我々の

網膜に映るものが全てでは、決してない。


謙虚に人間の限界を悟ってほしいと思う。

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16

1月

2010

「利他愛の難しさ」

「利他愛の難しさ」

 


人に対する愛

と言葉にすれば誠に簡単で

それ程崇高な事には思えないのだが
本能に基づく自己愛

とてつもなく強烈なもの。


何かの教えだから、とか

何かの都合で

そういう態度を取るのではなく
純粋に、この愛に芽生え実行する事は

私から見れば至難の業であり

自身何十回もの挫折を経験している。


その度に

己の度量の小ささに頭を抱え込み

打ちひしがれる。

 


この本能という「暴れ馬」を

何とか鎮めようと孤独な

そして情けない苦闘を未だに続けている。

 

 

着々と、この様な事を実践し

(もちろん、本人は無意識で)

完成の域に近い人を、私は何人か知っている。


誠に羨ましく思うと同時に

模範となる人が身近にいる事のありがたさを

身に沁みて感じている。

 

さて

自分にとって大切な人を愛する事は

決して難しい事ではない。


しかし

魂の向上という観点から考えれば

それだけでは不十分と云わざるを得ず
苦手な人、嫌いな人

不利益をもたらす人をも尊重し

愛することが真実の素晴らしく尊い修行だと

先に語った。

 

 

しかし、これが誠にもって、行うに難き事。


簡単にできないからこそ修行になるのだし
何度も何度も

生まれ変らねばならない理由も

ここにあるのでは、と思える。

 

この実体の愛に気づく事なく

又法則に考えを廻らせる事なく
己の欲望や都合

恣意的な感情のままに生きたとしたら。


恐らく多くの人を傷つけ

苦しみを与えてしまう可能性が大きくなるだろう。


つまりそれは

流れに逆らい返済すべき負債を

自ら作ってしまうと云う事に他ならない。

 

 

何人も、この因果の法則から

逃げられるものではなく

いずれはその借金を苦しみによって

返済しなければならないだろう。


しかし又、その事により
愛に反する行為の虚しさ

罪深さを自ら悟ってゆく様になると思う。


いや、絶対にそうでなければ

苦しみの人生を何の得る所なく

苦渋のまま無駄に費やしてしまうだけになる。


余りにも虚しいと云わざるを得ない。


孫達よ、不幸や苦しみに遭遇した時は

このことを思い出してほしい。


少なくとも

それに耐える事により負債の一部が返済され

一歩魂が浄化するのだという事を信じてほしい。


又、今というこの時は

過去の清算をしていると同時に

未来の原因を作っているのだ。

 

すべき事も為さず

「今さえ楽しければ」という

刹那的な、享楽的な考え方は
大いなる厄災や苦しみを

将来に予約している様なもの。


いずれ

後悔の涙を流す事になるのではと

危惧される。

 

しかし現に

金銭や物質、感覚の刺激によって

得られる喜びよりも

遥かに素晴らしく尊い愛が存在する事を
苦しみの体験によってしか

悟れない人の多い事も事実だと思う。

 

 

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12

1月

2010

「究極の愛」

「究極の愛」

 

全てを創り出した、その実体を人は
「創造主」と呼んだり、「神」と名付けたり

又、「大宇宙」と

イメージする人もいるだろう。


名は人間が付けたもの。


何と呼ぼうが実体はただ一つで

万古不易、永遠に不変のもの。


我々の到達した知性では

その実体を見たり、触れたり、感じる事さえ

出来ないのではないかと思われる。

 


しかし

人間の五感で捉えられない事と

存在しない事とはイコールでは決してない。


それ故に、仮定の領域を出ない事柄に対し
断定的な云い方になるかも知れないが

どうか謙虚に聞いてほしい。

 

私はこの実体が、想像を絶する超純粋な

そして強烈な【愛】そのものである

と強く信じている。


我々の幼い、未熟な頭脳と魂には

正に想像もできない程の
白光の如く、光輝く「慈愛」そのものだと

疑いなく信じている。

 

この究極の愛である実体が

我々をしてその魂が

自然に浄化し向上するような

愛の流れや法則を創り出したと思う。


そしてその中で

誰の指図でも命令でもなく

自らの意志で生きてゆく様に

自由と機会を与えてくれたのだ

と思っている。


同時に

その言動や想いの結果については

自らが責任を負い

その身に引き受けるのは、当然の帰結であろう。

 

 

実体が創造された、この愛の流れに

そのまま乗ってゆけば、愛に彩られた人生を歩み

幸せを実感する事ができるだろう。


が、それに逆らえば

その摩擦により

多くの苦しみを自ら背負う事になる。

 

この流れに身を委ねるというのは

つまり
実体が無限の愛で、我々を包み込んでくれる様に

我々自身もその家族や知人友人

さらには袖擦れ合う

全ての人に愛の念を持ち

少しでも実践する事だと思う。

 

 

自他を厳しく分け隔てる、競争原理ではなく

自らを愛する様に

他の人を愛おしく思える人間になる事が目的であり

 

その為の努力が

真実の修行だと云えないだろうか。

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12

1月

2010

「大いなる目的」

「大いなる目的」

 


生れついた時から

全ての人に具わっている自己保存

種族保存の二大本能。


それを全うする本来の目的以外の

大きく、尊い目的。

 

偶然というものが、存在しないとするならば

地球や、それを包み込むこの大宇宙を

一体誰が、何の為に創造したのか。


無の状態から、偶然何かが生ずる

と云う事があり得ないとするならば

我々は誰によって、

何の目的で創られたのだろうか。


答えは当然存在する筈である。


が、我々の未成熟で未完成の知性では

完全にこれを理解し、悟り切ることは

不可能な事かも知れない。

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12

1月

2010

「エネルギー保存の法則」

「エネルギー保存の法則」

 

更にもう一つ、我々に関係深いものに

エネルギー保存の法則

というものがある。


存在しているエネルギーが
形や状態を変えたとしても

決して無になる、消滅するなどという事は

ないという

物理法則は知る人も多いと思う。

 

私は、この分野においても門外漢なので

詳しい説明はできないのだが

要するに

生命エネルギーそのものである我々人間が

死んで肉体を失くしたからと云って

消滅したとか全てが無に帰したとは云えないのだ

という事ではないだろうか。

 


物質でさえ例えば
燃えて灰になったとしても

そのエネルギーは

熱エネルギーに変換されただけだと
物理学では説明している筈だ。


ましてや、物質よりも高次な存在である

我々人間の生命エネルギーが

消えて儚くなると云う事は

常識的に判断しても、あり得ないと私は思う。

 

 

さて随分クダクダしく

我々にまつわる法則について語ってきたが

いよいよ本題に入りたいと思う。

 


人生は、我々の今生きているこの人生は

決して一回きりのものではない

云う事を君達にはっきり断言しておきたい。


その為に、廻りくどく状況証拠にすぎない事を

繰り返し聞いてもらった訳であるが

一回きりの人生だと考えるには
余りにも多くの矛盾、不公平、不条理が

世に溢れ返っている。


その事を合理的に説明し

何らの疑義も差し挟む余地のない程の

説や論などが有るようには思われない。


昨日の自分が間違いなく今日も存在し

喜怒哀楽の情とともに考え行動し

又明日へと日を送る。


連綿と繰り返される、この営みの中で
人は少しずつ成熟し

進歩してゆくのではないだろうか。

 

多くの場合

それは苦しみを経験し乗り越えた時に

達成されるものと云える。

 

同じように我々は

ある大きな目的のために

何度もその生涯を繰り返し、少しずつ少しずつ

それに近づくものだと思う。

 

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12

1月

2010

「無駄なものはあるのか」

「無駄なものはあるのか」


人が生まれ生きてゆくことに

私は大いなる意味があり

深遠な目的が込められていると思う。

 


孫である君達は人類の中においては

たった六十七億分の一にすぎない。


しかしこの、六十七億というのは

気の遠くなるような、奇跡的な数字であり

君達が全人類を代表する人間になるというのは

まず不可能な事と云わねばならない。

 

しかし君達が生まれる為には母親の

成熟した卵子四百個の中の一個と
父親の何千億もの精子の中の一匹とが

受精しなければならない。


つまり、その確率は

何兆分の一という数字になる訳だ。

 

我々人間が生存するこの自然界の中で

何兆分の一の偶然が発生すると考えることは

かなり難しいのではないかと

私には思える。

 

 

たった数人の子供を成す為に

何兆人分の命の基を作る必要があるのだろうか。


プログラムされ、意図されて

人が生まれてくるのでなければ

我々は何兆人ものわが子を

無駄に死なせていることに

なるのではないだろうか。


もっと強く云えば

殺していることになるかも知れない。

 


生まれるべくして人は生まれる

と考えなければ

この壮大な無駄は説明しにくいと思われる。

 


人類が誕生して以来

幾多の環境の変化や生存競争にさらされる中で

無駄なもの必要のない部分は淘汰されてきた筈だ。

 

食物連鎖の底辺にいる

小さく弱い生物にとっては

子孫を残す為に

膨大な量の卵を作り生み出す必要が

確かにあるだろう。

 


しかし、全ての頂点にいる人間に

この様なことが必要なのだろうか。

 

我々人間が今、この地球上で

万物の霊長として云わば君臨し
自然を都合よく改変し

諸々の物質を作り出し快適な生活をしている。


つまり主である我々の為に

物質は作られ存在しているという訳だ。


その物質のレベルでさえ

偶然というものは、本当にあり得るのか

という事を考えてみたい。

 

 

前に取り上げた引力の法則に逆らう現象は

一切経験も見聞もないというのは

何度も云う通り間違いない事実だ。

 

慣性の法則がもし

偶然というものに支配されるとしたら
気分よく走行している自動車が

ブレーキもかけないのに

急に止まったり、減速したりという

恐ろしい事が起こっても不思議はない。


又逆に、信号待ちで停めているのに

勝手に動きだしたとしたら

これは誠に危険極まりない事だろう。

 

地球の自転公転についても
今だかって異変の存在を伝えているものは

皆無ではないだろうか。

 

夜が明けたのに又急に暗くなり、夜になってしまったり
いつまでも太陽が沈まず、昼日中のままだったとか

冬の辛い季節が過ぎ

春の訪れを楽しみにしていたのに

急に夏になり蝉が鳴きだしたとか

 

一年中冬景色のままだった

 

なんて事は
全く記録もなければ、想像すらしない事だろう。

 

この様なことが、稀にでも起こっているのなら

私は偶然の存在を信じるし
今、君達に伝えたいと熱望している想いや

絶対的な確信さえ

何のためらいもなく捨ててしまうだろう。

 

又、日々我々が口にしている食料

米や野菜などにしても
その種を植えれば必ず、それが育ち実る事に

何の疑いも持つことはない。


米を植えれば米、キュウリを植えればキュウリと

間違いなく植えた者が収穫される。


世界中で恐らく何億回、何十億回

その営みが行われているのに
偶然に他の物が出来たという話はついぞ

聞いたことがない。

 

朝目覚めたら、昨日の自分ではなく

性別も年齢も容姿も全然違う別人になっていた

などという馬鹿げた事も

起こったためしは、ない。


偶然という要素が存在し

我々に何らかの干渉する力を

それが持っているのなら
その様な事が起こっても

決して不思議ではないだろう。


この様に

日常の取るに足らない瑣末な事を除いて
我々が体験する事柄は全て

法則に則って生起するのであり

決して偶然はあり得ないと云う事を

理解してほしいと思う。


そして、その法則の中で

最も重要だと思われるものは

何度も云う様に

原因と結果の法則と云える。


人の行った行為が他の誰かに

結果として偶然結びつくと云う事は

断じてありえないのであり

わが身に起こることは全て自分にその原因がある。

 

 

しかしこの事は

人々に広く理解され熟知されているとは

決して言い難い。


自らの行動の結果が

例えばその日のうちに現れたならば当然

その原因と結果の結びつきを

容易に理解する事ができるだろう。


そしてその結果がもたらすものが

苦しみや不幸だったとしても

自ら蒔いた種で、仕方がないと諦めたり

納得するのではないだろうか。


しかしこれが

何か月後か、或いは何年後にしか

結果が分からないとしたら

どうだろう。 


特に重大な事や

印象深い事以外は、ほとんど

忘却のかなたに消えているのではないか

と思える。


時がたち過ぎて

自分が原因を作った事に思い至らず

辛く苦しい結果に遭遇した時

人はこれをどのように解釈するのか。


表面上の加害者を恨んだり

憎んだり、怒りを募らせたり
又わが身の不運を嘆き哀しみ

あげくにこの世には神も仏もない!

と短絡してしまう人も

いるかも知れない。

 

付けやクレジットで買い物をした事を忘れ

集金に来た人を恨み、罵る様なもので
その思いこそ、不合理と云わざるを得ない。

 

自らの身に起こる事は

偶然や気まぐれの

運命などの為せる業ではなく

 

やはり
われとわが身にその原因がある

と云う事は絶対に間違いのない事実だと思う。

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05

1月

2010

「汝、中道を歩め、という教え」

「汝、中道を歩め、という教え」

この様に心の領域には

まだまだ解明されてない未知の部分が多く
それだけに

原因と結果を結び付けるのは容易ではない。


この事に関しては負債の返済

それに続く魂の向上の項で

話を進めていきたいと思う。

 

とにかく、全てに完璧を求めてないか

執着やこだわり、捉われ、思い込みは

人並以上に強くないだろうか。


考え方、感じ方は極端に偏ってないだろうか

過敏になりすぎてないだろうか。

 

人を赦す度量は欠けすぎてないだろうか

などをチェックしてほしいと思う。

 

これらの要素は

やはり問題を生み出し苦悩の種となる可能性が強く

いつかは自分自身に牙を剥くかも知れない。


中道を歩む如く偏りのない生き方

をしてほしいと切に思う。

 


さて「気づきとしての意味」については

一応これで終わりとして


いよいよ、この記述の最も重要にして、

最も説明しにくい

負債の返済」「魂の向上というテーマ

取り上げねばならない。

 

今まで語り来った内容は

云わば常識の範囲内の話で

概ね首肯して貰えると思う。


が、以下に展開する

このテーマについての話は

証明不可能にして、奇想天外、常識外れの論理

と映るかも知れない。


信じられない人にとって

そう感じるのは当然とも云えるので

取り敢えず仮想の話として

できれば心、白紙の状態で読み進んでほしいと思う。

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05

1月

2010

「他人は自分の鏡」

 

「他人は自分の鏡」

 

 

人間的に成長し、薫り高き精神の成熟の為にも

人との交わりは絶対に必要な事と云える。

 
だが、同時に最も神経を使い

大なり小なり心を悩ませるのも

この対人関係だろう。

 

無意識の自分というのは

案外というか当然というか

自分だけが知らない部分が

まだ数多くあるのではないだろうか。


故にこそ自分以外の人が

わが身をありのままに映してくれる鏡

だと云える。


人との交わりは

実に多くの事を気づかせてくれるだろう。


そしてそれは往々にして

悩みや、みじめさや、自己嫌悪の

苦々しい念とともに、やってくる。


しかし

この苦さやチリチリとした

自責の念があるからこそ、人は

自らの足らざる部分、矯すべき部分に思い至り

反省し向上し得るのだと思う。

 


苦しみの意味を「気づき」という面から
ざっと見てきた訳であるが
肉体からのそれは比較的

原因結果が分かりやすく理解もしやすい。


しかし

心の苦しみは自分自身の奥深い 未知の領域に起因する

ことが多いので 中々に難しいと云えるだろう。

 

普通、我々が考え行動するのは

顕在意識の働きによるものであるが
そういう方向にグイグイ引っ張ってゆくのは

潜在意識という

神秘に満ちた、強烈なエネルギーを

秘めた領域の力だと云われている。


従って

このマグマのようなエネルギーを使って

慈愛溢れる人間性へと昇華できれば

誠に素晴らしいと思える。


只、この実現には尊い気づきを胸に

長い時間をかけて一歩、又一歩と進む

しか方法はない。


前にも述べた様に

せっかちに結果を求めれば必ず

挫折失望に行き着くしかない と思われる。

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05

1月

2010

「非を認めること」

さて次に

心の苦しみ悩みの意味についても
少し考えてみよう。


前にも述べたように

心病み、悩み苦しむその範囲は

誠に広く、かつ深い。


それは取りもなおさず

我々の思考が数限りない方面にまで

及んでいる事を、表わしている。


自分自身はもとより、自分と人との関係

仕事や将来の事、家庭に至るまで
人生を彩る全ての側面について

考えを廻らせ、そして思い煩う。

 

 

「非を認めること」


わき出ずる悩み、とはよく云われるが
実際は

自らが自分に向けて第二の矢を放ち

悶え苦しむのだと云う事を前章で語った。


この悩み苦しみを、人のせいにしないで

自分の精神面での不備不足

又は偏りを表わしているのでは

と気づき悟れる人は素晴しい人だと思う。

 

 

自らの非を認識することは多くの場合

自分のみじめさ、無力さを実感させるが故に

誠に辛いことではある。


しかし人との付き合いの中で

自分が軽視されたり冷たくあしらわれたり

非難、中傷、誹謗

又は、いじめに合うと云う事が

もしあった場合


常に相手や他の人が

一方的に悪いとばかりは云えないことも

あるのではないだろうか。


自分の言動が人に不快感を与えたり
誤解を招かせたり、知らぬ所で傷つけている

と云うことはないだろうか。


もちろん、そうでない場合も多いと思うが

自らが作った原因の結果として

それは表れているのかも知れない。


順風満帆の時や、自信や誇りに充ち溢れている時程

その可能性は大きくなると思われる。

 

他人の非を面と向かって云える人は

割りと少ないのは当然の事だろう。


誰しも無用の衝突や、嫌われる事はしたくないものだ。


故に気づきというものは

やはり人の態度、言葉、行動の中に

自ら見出すべきだと云える。

 

例えその為に

プライドが傷つき惨めさを感じたとしても

非は非として認めなければいけないと思う。


そして謙虚に反省し改め

向上をめざす勇気ある人になって貰いたい。

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30

12月

2009

「癌からの信号」

「癌からの信号」


身を守る砦という意味では

内臓からの信号としての苦痛も又、同様である。


一時な痛みというのは

しばしば誰にでも起こりうるものであり
休養したり、時間がたてば大部分は消滅してゆく。


が、頻繁に繰り返したり持続する痛みや

次第に増強するものには
何か重大な、病いや異常が潜んでいるかも知れない。


こういう事態に対して安易に

痛みなどを鎮める事のみに心を奪われてしまえば
正しく病態を把握できず

治癒させるどころか

悪化の途を辿ることにもなりかねない。

 

 

仮に今、胃が痛むとしよう。


痛みはやはり

人を不快にし、又不安にもするものだから

一刻も早くこの痛みを取り除きたいと

何かに頼りたくなる。


しかし、

その原因を自分でしっかり理解していなければ

何度も同じことを繰り返す事になるかも知れない。


又手軽に、簡単にこの気づきである信号を

取り除く事ができれば
危機意識も予防意識も芽生えてきはしないだろう。

 

苦痛を、その等身大に味わってこそ、

食べ過ぎ、飲みすぎ、取り越し苦労

や神経の使い過ぎなどの害に思い至り

改善しなければ

という気持ちがわき起こると思うのだが。

(多分何十回もの失敗の後に)

 

この痛みや苦しみが砦であり

人類の福音ですらあると

私は君達に云いたい。


なぜなら、

例えば癌というものを考えてみれば

それは自ずと理解できると思う。


早期発見の必要性が叫ばれている今、
その肝心な時期において

この気づき信号である苦痛がほとんど表れない

或いは感知できないという誠に残念な、現実。

 

概して

症状の表れた時にはもう既に末期に近く

各部に転移して手がつけられないというケースが

非常に多い。

 

もし治癒可能な、早期の段階から

特有の症状があれば

どれ程の尊い命が救われるだろう。


どれ程多くの人が

絶望の涙を流さずとも済むのだろう。

 

幼く、いとしい君達の事に想いを廻らせば
例えば

小児ガンで愛し子を奪われる親達の

その気持ちは余りにも切なく

胸えぐられる想いがする。


又逆に、

幼な子を残して旅立たねばならない親の

悲痛な無念さを想えば

魂が引き裂かれる様な気がする。

 

峻烈な不自由さを強いる脳梗塞に

もし特徴的な症状があれば
本人を含めて

どれ程の人が苦しみから救われるだろう。


どれ程多くの人々が

無用の苦しみを味わわずに済む事だろう。

 


特定の痛みさえあれば、、、、、、。


気づきとしての苦痛さえあれば

と痛切に思わずにはいられない。

 

避けて通りたい痛み、苦しみではあるが

わが身を守る為の「気づき」という

非常に大切な価値、役割を理解して貰えただろうか。

 

 

 

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30

12月

2009

第一 「気づき」

「三つの重要な意味」

なぜ苦しみは存在するのか、という問いに対する答えとして私は
【一】 気づき
【二】 負債返済
【三】 魂の向上            
        

という三点を挙げたい。

 

 

 

第一    「気づき」

 

各々順次、話を進めていきたいと思うが

まず第一の、気づきについて。

 

肉体からの苦痛は前章で述べた

原因によって生ずる訳であるが


もし痛みなどの苦しみが

いかに無理をしても発生しないとしたら

どうだろう。


人類にとって

それは幸せな事だと云えるだろうか。

 

 

ただでさえ、日本では

酷使によって自らの体を傷つけ

痛めつける働き者が多い

というのに

その使いすぎの信号である痛みが現れず

自覚がないとしたら、、、、、、、、、、。

 

 

 

恐らく筋肉、靭帯の断裂(肉離れ)や
疲労骨折、血液循環不全、壊死などにより

日常生活も、まともに送れなくなる人が

増加するのは、多分目に見えている。


四十代、五十代の働き盛りの人でも
その可能性は極めて大きくなるのでは

ないだろうか。

過労死、突然死という悲劇も

今より遥かに多くなると思われる。

 

 

辛く苦しい症状があるからこそ

人は休養を取り自らを労り

最悪の事態を回避することができる訳だ。

 

 

 

また

いかに良くない姿勢をとり続けたとしても

頸や肩、腰、背中の痛みやコリが

全く起こらないとしたらどうなるだろう。

 


頚椎などの変位、背骨脊柱の変形

骨盤関節の異常により

 

正常な運動動作をし辛くなる人が

非常に多くなるのではないだろうか。

 

 

又、昔に比べて体力が落ちたとか

少し動いてもすぐに疲れるとか
つまずきやすくなったとか

 

様々な衰えや不調を実感することにより

ようやく運動などの必要性

真に感じる様になると思う。

 

 

とかく、人は易きに流されるもの


本能的に、楽な方、楽な方に逃避し

余程の事がない限り革命的(?)

に生活習慣を変えようとは思わないものだ。

 


前にも云ったように文明的な生活

つまり快適さと豊かさを追求した生活は
自然や健康から遠ざかる一方だと

云わざるを得ない。


痛みや苦しみが最後の砦として、

我々を守ってくれている、と云っても過言ではない。

 

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22

12月

2009

「法則の世界」

「法則の世界」


人の人生の中で

数限りなく起こりくる出来事は全て

単なる偶然の為せる業なのか。

 

我々は、偶然や気まぐれに

振り回され翻弄される、木の葉の様な

頼りなく哀れな存在なのだろうか。

 

私は決して、そうは思わない。


我々の身に起こることは

こまごました部分は別にして

 

ほとんど法則に基づいて生起するのだ

 

と信じている。

 

良いこともそうでないことも

発生した事実と云うものは

原因があって、もたらされた必然の結果

であると云う事。


昔から「蒔かぬ種は生えぬ」という通り

」原因のない結果は

決してあり得ない、と思う。

 

物理学で云う所の

作用反作用の法則の様に

原因と結果の法則(因果の法則)

というものが存在し


我々は肉体的にも精神的にも

その支配下に置かれている。


我々の生存するこの世界には

確定されたものだけでも

法則は数多く存在している。


例外なき法則はない、という人もいるのだが

例えば一番身近で分かり易い

万有引力の法則」。

 


質量のある物をとり落とせば

必ず地球の中心に向かって落下する

という、この法則に対して

例外と云うべき事例を

自ら体験した事はあるだろうか。


他の人の経験を聞いたことはあるだろうか。


物を落としてしまったのに

下に落ちないで空中に停止していたり
上に昇ったり

横に移動して消えてしまった

などと云う事は恐らく

一度たりとも経験したことがないと思う。

 


確立された法則

極く自然な日常生活の中では

安易に狂ってしまったり
全く違う結果が出ると

云う事は決してないと思う。

 

文字が発明され記録が

残されるようになって以来

現在まで数千年の永きを数えるが

そのような記述がかつてあっただろうか。

 


私は寡聞(かぶん)にして

そういう事は全く聞いたことがない。

 

もし偶然というものが

本当に存在するのならば

法則もしばしば狂うこともあるだろうし

不思議な現象も随所に見られると思う。

 


つまり

我々を支配する法則は

何らかの事情で狂ってしまう様な

偏頗(かたておち)なものでは

決してないと云うことなのだ。


とにかく、この様な事を前提として

苦しみの意味について話をさせて貰いたい。

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22

12月

2009

「科学は万能か」

     


「科学は万能か」


誠に重苦しく、うつうつとした話が続き
多少、気が滅入ってしまっただろうか。

 

この疎ましく、忌まわしい苦悩を克服する
その為にこそ

しっかり学び納得してほしいと思う。

 


この章において、苦しみの意味

つまり
なぜ我々にこの苦悩が与えられているのか

それには何の意義や目的が込められているのか
じっくり考察してみたい。

 


只、これから展開してゆく話の内容に関しては
合理的な検証によって
対象となる物事の原因、結果を解明し
科学的に一点の非の打ち所のない
証明証拠を提示することは、残念ながらできない。


学術的な意味においては

誠に未熟で、正統な研究に値しない論理

と映るかも知れない。 


しかし、
存在する全ての真理を

現在の科学が解明し尽くしたとは
決して云えない事も又、事実である。


その事を謙虚に見つめ

その上でこれからの話を聞いて貰いたい。

 

肯定、否定ともに証明することのできない
云わば信じるかどうかだけが

決め手となる事柄だけに
大上段にモノを云うつもりはない。

 
しかし白紙の状態で読み

そして考えた結果
整合性を感じたならば

その時は信じてほしいと思う。

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15

12月

2009

「完璧を求めることは」

    「完璧を求めることは」


さて、うつという恐ろしい病い

に至る原因のなかで

今、
最も多く見られるパターンは
仕事に関しての悩みからのもの

ではないだろうか。

 

それも哀しいことに

使命感や情熱をもち
全霊を傾けて仕事に取り組みながら
次第に無力感に押しつぶされ
深い苦悩の底に引き込まれてゆく。

 

そしてついに発病に至るという

同情を禁じ得ないケースが
余りにも多いように思われる。

 


しかし、仕事に対する苦しみや悩みは
恐らく全ての人がかかえている筈なのに
うつになったり
自ら死を選ぶというのは、なぜなのか。

 

ナイーブすぎたり、繊細にすぎる資質も
その原因の一つではあるが


完璧を求めて止まない性格が
それを引き寄せている場合も
多い

 

のでは、と思える。


物事を中途半端にできない
何でも満点でなければ気がすまない

という人は
結構多いかもしれない。

 

しかし、思い通りにいかないのが当たり前の
「無常」の世に生きる

我々人間にとってこれは
むしろ身に過ぎた重荷と云う他ない。


完璧を望み、それを目指す人は当然
人一倍の努力を傾注する。

 

それは誠に尊敬に値することではある。


だが、
結果に対しての期待も

やはり完璧になる所にこそ
問題があり

 

苦悩の萌芽をそこに感じてしまう。


愛しき者たちよ

決して多くを期待するなかれ!

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15

12月

2009

「求不得苦(ぐふとっく)」

  「求不得苦(ぐふとっく)」


求めて得られぬ苦しみは

精神的向上という、高尚な分野だけでなく
当然のことながら
金銭や物質の面でむしろ

より多く、より強く

心を悩ませ苦しめる。


六七億もの人類が全て、安楽で贅沢な生活ができる程
地球は豊かではない!

 

むしろ、貧しすぎる星だと

云ったほうが正確かも知れない。

 

世界の大部分の人は、前にも述べた通り
その置かれた厳しい環境の中で
細々と
露命(はかない命)をつなぐ為に
苛酷な闘いを強いられている。

 

生存や生活のレベルにおいては

誠に著しい程の差が歴然と存在している。


豊かな環境にあっても人は

やはりより豊かに
より快適にと期待するもののようだ。

 

まるで際限を知らぬかの様に。


死ぬ程の渇きに苦しんだ人が水を
飲んでも飲んでも満足しない様に

物や金を求めて止まない人の心は
尽きることも果てることもないのでは、と思える。

 

得られれば更に求める

この期待や欲求の大きさ、深さは
まるで、

心の中に灼熱の砂漠が横たわっているかの様だ。

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15

12月

2009

「大いなる期待」

   「大いなる期待」


人は常に様々な想念を出しながら

生きていると云える。


物質的にも金銭的にも

又、名誉など精神的な面においても

「今よりもっと、よくなりたい」

という願望がとりわけ
大きく心を占めている様に思える。

 

又、望みがあるから人は努力もし
耐えることもできるのだろうし
生きる気力の源になっているのかも知れない。

 

願望や理想に向けて

ひたむきな努力をすると云うことは
とても素晴らしいことであり
又尊いことだと思う。

 

が、問題となるのは実は

「期待する」という所に
あるのではなかろうかと、私は思うのだ。

 

努力して結果を期待するのは

当然なのであるが
その努力に対しての結果や成果

また人の評価は

必ずしも比例するものではない。


この事は恐らく、誰しもが経験し

実感しているのではないだろうか。

 

第三章で、この事の意味を

一緒に考えてみたいと思うが
もし期待が大きすぎたり、深刻すぎた場合
期待外れになった時の失望や落胆は
決して小さいものではない筈だ。

 

自分自身の人格や性格に対する

望みや期待も同じことだと云える。


「向上しよう、自らを高めよう」

と云う気持ち、努力は

誠に尊いことだと称賛したい。

 

だが、人は中々簡単に変われるものではない。


何年にも何十年にも亘る
落ち込みや、やり直しの繰り返しの中で
少しずつ少しずつ
目標や理想に近づくのではないだろうか。


時間を味方にして、じっくり取り組まなければ、
期待の大きさに自ら押し潰されてしまうかもしれない。

 


自分の全てに自信が持てない。


自分程つまらない者はいない、という想い。


そして、心さいなむ自己嫌悪。

 

誰しも一度は経験する

この悩ましい想いは何から生まれるのか。

 

誤解を恐れずに云うなら

やはり
「期待の大きさ」だと思う。

 

現実の、今の自分でない、理想の姿を余りにも強く
余りにも速く求めるが故に、苛立ちや焦燥
無力感などが生じてくるのではないだろうか。

 

理想の、その姿を目標として掲げ
ゆっくり時間をかけて実現してゆこう

と云う気持ちにならない限り

この悩みは解消しないのでは
と考えられる。

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12

12月

2009

「第二の矢」

   「第二の矢」


それでは次に

心の苦しみの原因について考えてみよう。

 

苦悩自身が、他からやってきて

人に襲いかかると云う事はあり得ない訳で
諸々のトラブルや問題に対して

 

人の心が反応し

自分自らがこれを生み出してしまう

と云うことだ。

 


前に述べたように

世界には絶望的な苦悩が

確かに存在しているのだが

大部分は
「その問題を問題にするから重大な問題になる」

という意味合いでしかない。

 

この事を君達にしっかり理解してほしいと思う。

 


二千数百年前から、仏教の開祖である釈尊はこの事を

『第二の矢を受けるなかれ』

という言葉で説諭されている。

 

様々な被害(物質的、肉体的、精神的など)

を受ける事が、第一の矢であり、


この矢に反応し怒り、嘆き、傷つき、
絶望の淵に立たされて生ずる心の苦しみが

即ち、第二の矢である。


人の感受性の違いや、その他により
この第二の矢から受ける傷は正に、千差万別。

 

同じ様な程度の被害でも、割と平気な人もいれば
逆に死ぬほどの苦しみと感じる人もいると思われる。

 

 

この差は何から来るのだろうか。


何がこの感受性の違いをもたらすのだろうか。


天賦のものか、育った環境か。

 


ともかく少々、敏感すぎる感受性と、強い執着心
捉われ、思い込みの念。

 

神経質で、物事を気にしすぎる資質。


根拠のない不安、恐怖をはねのけられない気の弱さ。

 

耐え忍び、立ち向かう気力が

やや乏しい性格などが災いして


結果、目にみえぬこの第二の矢を受け

苦しんでいる人が
非常に多いのではないだろうか。

 

 

これらは、外部からの刺激に対する

反応によるものであるが


次に、
自分自身に対しての「思い」が作り出す苦悩

についても、言及してみたいと思う。

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12

12月

2009

「内臓からの警告」

  「内臓からの警告」


次に内臓が発する苦痛についてみてみよう。

 

内臓疾患も数々あるが

やはり全ての人が例外なく
不安を感じ、恐れを抱くであろう「癌」。

 

 

大気汚染や紫外線、電磁波などの
物理的なエネルギーによる影響や食品添加物など

今、
我々を取り巻く環境を考えれば全ての人に
その可能性があると云わざるを得ない。

 

その上に、かの天敵の様なストレスが

強く作用すれば
その可能性はますます高くなる。

 


又、本人の自由を奪い

人生の質を著しく損ねるだけでなく
まわりの人に多大な負担をかけるであろう

「脳梗塞」。

 

多くは半身不随となり

ごく普通の日常生活にさえ
支障を来すその不自由さは

想像するだに恐ろしくはある。

 


外的環境の悪化に拘わらず不摂生

つまりストレスを放置し
運動はほとんどせず

 

その上、節度なき食習慣が加われば
その発症の確率は極めて高くなって当然だろう。

 


又、免疫や遺伝子の異常によると云われる

膠原病の真因は、未だ不明の部分が多い。

 

 

従って

予防することは相当難しいことには違いないのだが
ストレスを巧く処理し、

適度な運動と食事を心がけ
常にA⑩神経を刺激する様な想いを出していけば

 

或いは、
発症進行を遅らせることも可能なのでは

と私は期待している。


そしてその他の内臓疾患に対しても

このことは充分に
「予防」と成り得ると思う

 

何故なら
ほとんど全ての病気には

この三つの要素(運動、食事、ストレス)
その発症原因の最たるものと考えられるから。

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12

12月

2009

「緊張の害」

 「緊張の害」


さて、

酷使や過労、又は運動不足によって

筋肉が疲れ劣化することが
苦痛の原因になり得ると述べてきたが
もう一つ重大な原因と考えられるものがある。

 

それは「無意識の緊張」なのだ。

 

 

欧米の人々に比べて日本人は
リラックスすることが余り巧みでない様で
緊張しやすい人が非常に多いと思われる。

 

しかも
緊張している

その事に本人はほとんど気づいていない

 

何故なら

無意識(潜在意識)がオートマティックに

これを行わせているから。

 


意識や神経の緊張が

当然のように筋肉に力を入れさせるので
この緊張が持続している間は

筋肉も同じように硬くなる。

 

そしてその中を通っている

末梢神経や血管を圧迫し、血流を悪くしてしまう。

 

 

それを直そうと努力しない限り
人の性格や生活の習慣、傾向というものは中々
変える事は難しいのだから

ほとんど一生これを引きずると云うことになる。

 

 

例えて云うなら
自動車をガレージに入れている間にも

エンジンを切らず
休ませることなく動かせている様なもの。

 

エネルギーの無駄使いや

苦痛をもたらすだけでなく
老化も当然速くなってしまうだろう。


緊張によって

頸や肩の筋肉が極度に硬くなってしまえば
あの不快極まる「頭痛」が

しばしば発症するだろうし

 

腰や足のコリにより、短く硬くなった筋肉が
日常の動作によっても

無理に引き延ばされて軽い捻挫状態となり
痛みを発することも歳とともに多くなる。

 

常に確認してほしい。

 

今、君の筋肉は緊張しすぎてないか、を。

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08

12月

2009

「姿勢が悪いと」

「姿勢が悪いと」

色々と不都合や苦痛が

姿勢の悪さからも生じてくる。

 

職業から来る姿勢の影響は

ある程度仕方のないことではあるが


日常生活においては充分に気をつけて貰いたいものだ。


特にテレビを見る姿勢が

最も大きな影響をもたらすだろう。

 

真正面から見ていない人の方が多いと思えるが、
長きに亘ると

左右の筋肉の緊張に偏りができて
コリだけでなく脊椎の変位

(いわゆる骨のズレ)


というやっかいな事まで起こる可能性がある。

 

寝ころんでテレビを見ていればそれは

ますます大きくなるだろうし

視力も次第に悪化してくる。


又、女性のよくする横座りも

骨盤や背骨のねじれ、ゆがみを生み出し易い。

 

よい習慣は中々つきにくいのに

良くないそれは誠に簡単についてしまうもので

充分心してほしい。

 

「老化によって」

歳をとり、肉体が衰えてくれば当然体の各器官は

様々にトラブルを訴え

苦痛を呈するのは、云わば自然のなりゆきで


如何ともし難い所なのだが
その衰えの中でも筋肉のそれが

最も大きな要素と云えるだろう。


やはり運動不足が

老化を促進させ、年齢よりも体力を衰えさせて
諸々の障害をもたらす元凶である。

 

又、それだけに止まらず

脳の血流も悪くなり
脳細胞の死滅速度も一層速くなると推測される。


つまり
体だけでなく脳の老化についても

筋肉を動かす事は
重大な影響があるということを知ってもらいたい。


       筋肉こそが
             アンチエイジングの希望の星なのだ。

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08

12月

2009

「肉体の苦痛はなぜ起こるのか」

「肉体の苦痛はなぜ起こるのか」

痛みをはじめ、諸々の苦痛が発症するのは

一部の先天的疾患や体質
及び老化によるものを除けば大部分は

自らの生活の態度、習慣がその原因と考えられる。

現代文明を享受しての、豊かな生活は
残念ながらそれと引き換えのように
健康を置き去りにしている、と云わねばならない。

 

世界有数の長寿国であり
保険衛生面でも相当のレベルを保っている

この日本においてさえ、
病気の数は減るどころか

むしろ逆に増加していると云うのは
否定できない事実ではないだろうか。

 


伝染病をはじめ、感染症を撲滅又は

減少させた現代医学の
輝かしい業績にも拘わらず
耳慣れない病気が最近多くなったと感じないだろうか。

 

健康面における環境は昔に比べ反って
悪くなっているかも知れないと云うことを
この事は、雄弁に語っているようにも思える。

 

 

今は仕事面でも、家庭の面でもそれ程体を動かさなくとも
そこそこ用が足せる為に
多くの人が慢性的な運動不足状態になっている

人が思っている以上にこの運動不足が

健康に害となっていることを
しっかり認識して貰いたい。


過労、酷使による障害や苦痛で悩む人も多いが
それよりも遥かに多くの人が

運動不足による体調不良に、陥っている。

アメリカでは年間、四十万人の人が
運動不足と肥満による障害で亡くなっているという

寿命の尽きるまで健康でいる事は
単に好ましいというだけでなく、

生をうけた者の義務でさえあると思う。

 

 

その為にも、運動はやはり必要な事なのだが
その重要性は正しく理解されているとは、とても思えない。

したほうがいい、のではなく絶対に必要なのだと、
声を大にして云いたい。

 

その主役である筋肉の働きについては

後程詳しく述べてみたい。

 

運動不足になると当然、筋肉の血液循環が悪くなり
手足が冷えたり、筋肉自体も短かく硬くなってしまう。

 

血管や神経が圧迫されてだるさ、しびれ、凝りなどが現れ
より疲労が蓄積されれば痛みを発症するようになる。

運動器疾患といわれる

頸や肩のこり、腰の痛みなどはやはり
筋肉の疲労、緊張、老化による循環障害

が大きな原因であり


関節自体も、酷使による損傷は別として

筋肉の保持がしっかりしていれば
通常は、そうそう悪化するものではない。

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08

12月

2009

苦しみの原因

苦しみの原因


苦しみを軽減させたり、消失させたりする為には
その苦しみを、充分に理解し原因を探らねばならない。


そしてその意味について考究し又
正しく対処しなければその目的は達せられない。

 

では次に

この難敵である苦しみをもたらすもの

について考えてみよう。

 

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08

12月

2009

「増加するうつ病」「遺言として」

「増加するうつ病」


そして

その苦しみ悩みの究極の姿とも云うべき
うつ病の蔓延。

 

命を削る程の苦闘の末に

大部分のひとは回復してゆく。

 

しかし、果てしなき悩みや、このうつ病により
年間三万人以上の人が自ら命を絶つという
恐ろしくも哀しい状態がこの十年間も続いている。

 

痛ましさに、胸ふさがる思いがする。


生きるという事は

大なり小なり苦痛や苦悩を伴うことであり
死にたいと思うことも

 

決して稀有なことではない。

 

が、しかしほとんどの人は苦しみながらも何とか
堪え忍び乗り越えてそれなりの
安らぎある人生を全うするものと云える。

 

苛酷さに呑み込まれる人

これを乗り越えられる人とは
一体何が違うのだろうか。


又、自殺を防ぐもっと確実な方法はないのだろうか。

 

どうすればこの忌まわしい、悩みの数々を軽くしたり
無くすことができるのだろうか。

 

その事について、共に考えていきたいと思う。

 

「遺言として」


孫達よ
君達が生涯苦しみのない日々を送るという事は
多分不可能であろうと私は
哀しくも理解している。

 

 

今痛切に望むことは


君達が、苦しみの因って来る原因を

正しく悟り
それに打ち克ち


そして乗り越え

自らの幸せを自らの手で掴み取れるような
逞しく、又優しい人に

なってほしいという事なのだ。

 

そして

その事の助けになる様にとの想いをこめて
この遺言を書く気になった。

 

又、平成二十年の時点で
私は六十三才、初孫の洸希は三才、
孫娘の美海はたったの一才にすぎない。

君達が成人し、その事を理解するまで、
私の頭と寿命はもつだろうかという懸念もあって、
これを残そうと決意するに至った。

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05

12月

2009

「果てしなき心の闇」

「果てしなき心の闇」


では次に人類の最大の難敵とでも云うべき、
この心の悩みについて考えてみたい。

 

心を悩ませるその、苦しみの範囲は余りにも広く、

且つ驚く程深い。


外界からの刺激

(職場や家庭、その他における出来事や人間関係の問題)

に反応して我々は様々な想念を発するのだが


この想念と表裏一体のように
色々な感情も同時に沸き起こることが多い。

 

その中でも
嬉しい、楽しい、ありがたい、好きだと云うような
A⑩神経(脳内の快感を感じる神経)をくすぐる

心地よい感情は幸福感をもたらし

健康にも大いにプラスになると思われる。

 

だが、実際はむしろ逆にネガティブな感情の方が

種類も数も多いのではないか。


哀しい、悔しい、辛い、憎い、うとましい

嫌いだなどの念は当然
いやな感情と結びついていたり

感情そのものであるので


自身心地よくないばかりか、
毒素ホルモンとでもいうような

体によくない化学物質を産生してしまうだろう。


さらに限度を超えた感情は
著しい心痛をもたらす事もあるだろうし

他人への怒りや憎しみという攻撃的な念は
燃え盛る炎の様に

心の平安を大いに乱してしまうだろう。

 

その他不安、恐怖、焦り、絶望感、孤独感、疎外感、喪失感、無力感など


数えあげれば限りがない程、
我々を苦しめる要素は世の中に充ち充ちている。

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05

12月

2009

「体の苦痛と心の悩み」「苦痛より苦悩の方が」

「体の苦痛と心の悩み」


まず、肉体からの苦しみについて考えるなら
当然存在する病気の数だけの苦痛がある訳だ。

 

頭のてっぺんから足先まで、実に様々な病気、症状が
人を苦しめ、悩ませている。

 

怪我による苦痛は概ね一時的なもので
時とともに軽快し正常に回復する。

が、
病気によっては徐々に悪化の途をたどり
治癒する見込みの全くない重篤なものも

多く存在している。


さて、人を苦しめる症状としては
めまい、耳鳴り、動悸、息切れ、呼吸困難、吐き気、疲労
マヒ、シビレ、凝り、かゆみ等色々存在している。

 

 

が、やはり最もありふれていて
最も苦しみの度合の大きいものはやはり「痛み」であろう。

 

ちょっとした切り傷や打ち身の軽い痛みから
想像を絶する末期がんの痛みまで
体の至る所でこの怪物は無慈悲に人を
苦しみに追い立てる。

 

 

この忌まわしいものがなぜ存在し

我々に与えられているのか


については後ほど考察してゆきたいと思う。


その他にも、怪我や病気によってもたらされる

体の「不自由さ」や
「不便さ」も少なからず人に辛く

苦しい思いを強いるものだ。

 


「苦痛より苦悩の方が」


この様に巷に溢れる如く見聞し
又自らも経験するであろう、この苦痛はしかし


心が発する、又被る苦しみ
即ち苦悩に比べればまだしも軽いもの

云わざるを得ないと思う。


なぜなら、
体からの苦痛は極限に達すると

失神によって意識を失わせ
脳が自らパンクするのを防ぐシステム

のようなものが存在している。

 

一方

 

心の苦しみ悩みは、誠に果てしなく
限度もなければこれを回避し
自身を救うべき体系が具わっているとは云えない
から。

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05

12月

2009

「五蘊盛苦」「高い知能の故に」

[五蘊盛苦」

それに比べれば日本は

正に天国の様な環境といえるだろう。

 

だがそれでも今
この瞬間に病気や家庭不和、諸々の争い事などで
嘆き苦しむ人が数え切れぬ程いるものと思われる。

 

直接生命を脅かされる様な

世界のそれと比べれば

 

日本では、苦しみのレベルが格段に低く
軽いものと云えるだろう。


が、

元々苦しみというものは
それを数量化する客観的な物差し等はなく
個人の思いがそれを作り出したり

増幅したりするものだ。

だから例えば、
中、高校生のいじめが

自殺を誘発させる様な苦しみになる事もある。


又、体に障害を持っている人も

精神的にそれを克服するまでは
やはり辛い

苦しい日々があったのではと想像される。

 

諸々の事情により、
明日の希望を見出せず自暴自棄に陥って

犯罪に奔る人も数多い。

 

その他
生、病、老、死 のもたらす苦しみや恐れ。

 

四苦八苦(四×九+八×九)の百八つの煩悩。

 

正に五蘊(意識や感覚全てを含んだ肉体)にてんこ盛りの苦悩。

我々には常に、際限なき苦しみがついて廻るように思える。

 


「高い知能の故に」

他の動物に比べて人類は
長い年月をかけて脳を極限まで発達させてきたのだ。


が、 

その結果

高い知能、知性と引き換えのように

苦しみや悩みを獲得したのだと
云えなくもない。

 

これに対処し、そして克服する為にも充分に
この苦しみというものを研究し

考察しなければならないと思う。

 

幸せへの道を探る為にも一緒に苦しみを探検してみよう。

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05

12月

2009

「飢える子供達」

 


アフリカでは

一年間に五百万人の幼い子供達が
飢えと病いで死んでいるという。

 

空腹を満たすわずかな食べ物もなく、
病いを癒す薬も、術もない状況の中で

この子達は一体何を思うのだろう。

 

又、愛しいわが子が飢えて、死んでゆく姿を
その親たちはどのような思いで

それを見送るのだろう。


断腸の、その血を吐く様な思いを

どのようにして癒すのだろう。


東南アジアでも内戦、病気、虐待等で

多くの人が塗炭の(泥にまみれ、火に焼かれる様な)

苦しみに喘いでいる。

 

ここでも、狂気の指導者による

大量殺戮のおぞましい歴史があり


又悪魔的発想の地雷によって
手足に障害を負った子供が、数多く存在している。

 


健常な子供でも、貧困の故に学校へも行けず飢えを
やっとしのげる程の食料を稼ぐ為に
ゴミの山をさまようという現実があるのだ。

 

国によっては独裁者による圧政におびえ
息をひそめて暗い日々を過ごしている人もい

自由、権利など一切無視され


もし隷属を拒否すれば粛清、抹殺の道しかないという
信じられない国が未だに存在しているのだ。

 

こういう国では例外なく

密告というものが奨励されていて、隣人すら信じられない
互いに疑心暗鬼の暗い、寒々しい環境に縛られているのだ。

 

 

 

 

 

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28

11月

2009

「孫達へ」

   


君達は将来どのような人生を歩むのだろう。

楽しい毎日を送るのだろうか。

 

それとも苦しみに悶々とした思いで、日々を過ごすのだろうか。


愛しい君達が生涯、苦しみや悩みのない人生を送れる様にと
心から熱望してはいるけれど

 

その想いとは裏腹に色々な問題で悩み苦しみ

折にふれ

数多くの涙を流すこともあるだろう。

 

人生には幸せの数より、不幸の数の方が、遥かに多いように思える。

 

実際、平和で豊かな日本では想像もできないが、

世界にはありとあらゆる不幸が至る所で

人を苦しめているのが現実なのだ。

 

貧困、飢餓、戦争、難民、虐待、拷問、差別。

 

どれをとっても人に死ぬ程の苦しみを与えるものであり
今もそれは

現に起っている事なのだ。

 

対岸の火事と目をそむけないで、
ありのままに現実を直視しなければいけないと思う。

 

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28

11月

2009

目次

序文               
第一章 苦しみとは         

孫達へ
 飢える子供達
 五薀盛苦        
 高い知能の故に     
 体の苦痛と心の悩み   
 苦痛より苦悩のほうが
 果てしなき心の闇
 増加するうつ病
 遺言として


第二章 苦しみの原因        

 肉体の苦痛は何故起こるのか
 姿勢が悪いと
 老化によって
 緊張の害
 内臓からの警告
 第二の矢
 大いなる期待
 求不得苦
 完璧を求める事は

 

第三 章苦しみの意味      
 
科学は万能か
 法則の世界
  気づき           
 癌からの信号
 非を認める事
 他人は自分の鏡
 汝中道を歩めという教え
  負債の返済        
 無駄なものはあるのか
 エネルギー保存の法則
 大いなる目的
 究極の愛
 利他愛の難しさ
 貧弱な視力で
  魂の向上          
 貪、瞋、痴
 驕れるものと無常の風
 宇宙服
 両刃の剣


第四章 苦しみの対処法     
 
幸の礎
 ゆっくり噛む事の重要性
  尊い犠牲
  筋肉の偉大さ
  第二の心臓
  ワンステップ運動
 足かせで鍛える
  超スロージョグ
  有酸素運動
  執着の恐ろしさ
  ベストを尽くすのみ
  少欲知足
  あるもの感謝
冷えへの対処
  姿勢を美しく保つ
  緊張を解く
  自律神経訓練法
  睡眠の悩み
  目のトラブル
  口の災い?
  口臭を一発で取る方法


第五章 外邪の種類と対策          
  
 邪気 
  おぞましき霊体験
   邪念
   邪霊
  神は過保護な親か?
  聖霊への祈り
  アルコールで邪気取り


第六章 真実の幸せとは 

  あとがき     

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28

11月

2009

序文

 

 孫達へ


二十一世紀の現在
地球上の人類はすでに六十七億人を突破したといわれている。

 

たった一人の例外もなく
人は苦しみのない
喜びに充ちあふれた人生を送りたいと望んでいる筈だ。

 

にも拘わらず現実は
あまりにも多くの苦悩が人を襲い
絶望の涙を流させている様に思われる。

 


幸せとは何なのか。

なぜ苦しみは存在するのか。

苦悩のない人生を送ることは、不可能なことなのか。

 

 

私は一鍼灸師として、人の病苦と対面しつつ
この問題を数十年の永きに亘り追及し、答えを模索し
そして先人達から学んできた。


科学万能の考え方からすれば検証不可能な事柄にまで言及し
一人よがりの独善的な解釈と
非難されそうな持論の展開になるが

 

現代科学の粋を結集してもなお
解明し得ない事象の存在することを踏まえて
虚心に読み、且つ考えてほしいと思う。

 

私には、苦楽や幸不幸、幸運不運というものが偶然に
又、不公平に、人に振り分けられているとは、とても思えない。

 

又、我々の知覚では認識し得ないが人間を超越した
大いなる「意志」というものが存在しているのでは
との思いを否定し、消し去ることもできない。


あらゆる出来事は偶然で、死ねば全て終りだと
頑なに信じている人に対して
議論するつもりもなく、説得する能力も持ち合わせていない。

それを可能にする証拠もあるとは言い難い。


ただ、私の信じていることを表明し
君達自身の問題として真剣に考えて貰いたいと
そう思っているだけなのだ。

 

そして、この記述により君達の将来訪れるかも知れない苦悩が、
少しでも軽くなるとしたら

それこそが私の望外の幸せというものだ。

 

 

 

 

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